新田幸子(にった ゆきこ)
昭和14年生まれ。取材当時84歳。
神山町で生まれ育ち、神山町で結婚。3人の子どもに恵まれた。末っ子が2歳のときに夫を山の事故で亡くし、その後子ども3人を育て上げる。現在は下分生活改善グループの活動に加え様々な取り組みに参画し、仲間と共に地域活動に邁進している。
私は、生まれてから今までずっと神山で暮らしてきた。
今は、ちょうど徳島県の真ん中あたり、町のほとんどが山で、鮎喰川が流れている。四季折々の自然が美しい町だけど、町全体に桜が咲き、枝垂れ桜も風に揺れる桜の季節は格別に美しい。
生活改善グループの仲間とともに、自分たちで鮎喰川にヨモギを摘みに行って、一生懸命作った団子を毎年、桜を見に来た多くの人が買ってくれるのが本当にうれしい。グループの会長は今も昔も笑顔が可愛い従姉妹の育子ちゃん。お互い戦中、戦後を乗り越えて、がんばってきた。
こんな話をしていると、子どもの時のことを思い出してきたなぁ。
もくじ
豆腐店を営む西内家に生まれる
私は、昭和14年の11月13日に父 西内重治と母 西内キクエの間に8人兄弟の7番目として生まれた。両親と祖父母、兄弟で一緒に暮らしていた。すぐ下は妹で、一番上の兄は、私が生まれた時にはすでにこの世を去っていた。自宅は上山村字宇井。下分ではなく、上中内のタクシー(現在の社名は寄居観光)の横にあり、火災に遭って、下分で生活を始めた。私の生まれる前のことだ。下分は、町の中心地ではなかったが、鮎喰川沿いには、日用品店、木工所、洋裁店、魚屋、理髪店など生活に必要な店は揃っていた。今は空き家も増えて、移住者の方が住んでいる家も多い。
我が家は、豆腐屋を営んでいて、豆腐、油揚げ、こんにゃくを作っていた。鶏は100羽ぐらい、豚は5-6匹飼っていた。豆腐を作る時の豆乳の絞りかすは、この鶏や豚の餌となった。米や大豆、芋や麦も作っていた。畑の畔には、みかんやしゃしゃぶ(グミの実)、はっさくや梨の木もあって、遊びの合間にみかんやしゃしゃぶをつまんで食べていた。専用の部屋で味噌や醤油も家で作っていた。畳を上げて、桶を置いていくのが重労働で家族総出の仕事だった。
幼少期、身体が弱かった
父母によれば、生まれた時からお乳も飲めないほど、身体が弱かったという。 そんな私を心配して病院へ連れて行くと、「この子は家に帰るまで、もたないかも」と言われたこともあった。
そんな状態だったから、成長しても小学校にあがるまで、私は父、母に甘えてばかりいた。
父は、「ゆっこ、お前は神様からの授かりものだ。元気になれよ」と私の体をさすってくれた。母は、いつも添い寝して、抱きしめてくれた。
ある日のことだった。いつものように、添い寝して抱きしめてくれた母のぬくもりの中で眠りにつくと、胸のあたりにすぅっと冷たい風が吹いてきて「あれっ、なんだか寒い」と思って目が覚めた。寒いはずだ。母は、寝床にいなかった。灯る明かりの方向で私が見たものは、働いている父と母の姿。暗いうちから働いて、豆腐づくりの準備をしていた。午前2時ごろではないかと思う。母はそのまま、朝まで寝床に帰ってくることはなかった。
本当に朝から晩まで働き詰めの父母だった。手元にある写真では、縁側の前で笑う父と母。こんなに小さい身体でどこにあんなパワーがあったのだろうと今思う。写真の父母に「おはよう」と語りかけると、写真の父と母はいつも笑っている。
母のこと
母は、裁縫と料理が得意な人だった。いつも正月には、兄弟全員の新しい着物とはんこ(徳島の方言で半纏のこと)が枕元に並んでいた。きっと夜通し作ってくれていたに違いない。
我が家は豆腐店だったので、こんにゃくや油あげはいつもあったから、よくバラ寿司も作ってくれた。母の作るバラ寿司は絶品で、大根、人参、油揚げ、酢飯の味もちょうど良かった。
家の前が鮎喰川だったので、遊山箱を持って遊びに行くこともあった。徳島では、春の季節、草木が芽吹き、花咲く野山や川、海に出かけることを遊山という。遊山箱は、木工が盛んな徳島の技術を活かした持ち手がついた三段のお重のことを言った。近所の桶屋で遊山箱を作ってもらい、母がそこに巻きずしを詰めてくれた。いつも私は父や母の温もりに包まれて暮らしていた。
小学生の頃
父や母の愛情に包まれて成長した私は、上山小学校(後の下分小学校。現在は廃校)に通い始めた。
小学校の時の遊びといえば、缶蹴りや縄跳び、そしてバイ(コマ)遊び。家は敷地が広かったので、友達や近所の子どもがいつも集まってきて、遊んでいた。
そして、鮎喰川では、夏にはシミーズ一丁で遊んでいた。私はあんまり川に入ることはなく、水辺で遊んでいたけれど、友だちは皆、気持ちよさそうに泳いでいた。男の子も女の子もみんな一緒だった。
春には友だちと一緒に山に入って、競い合うようにワラビやゼンマイを採った。形の良いものや大きなものは争奪戦となる。「わっ、これ採ろう!」と友だちと同時に手を伸ばし、ほんの一瞬の差で私のものになったワラビもあった。その時の友だちと最近同窓会で再会し、「あのワラビ、私が採ろうと思っとたんじょ」と言われた。もちろん、お互い笑顔だった。80歳を過ぎても、遠い昔の子どもに戻り、笑いあえる。「ふるさとって、ほんまにええな」としみじみ思った。
小学校低学年の時は、太平洋戦争の真っ只中。神山は、空襲に遭うことはなかったが、戦時下もあって、空襲警報があると軒下に隠れた。徳島大空襲の時は、徳島市の空が真っ赤になっていて、とても怖かった。その時、姉が徳島市内で働いていて空襲に遭い、命からがら徳島城のお堀に飛び込み、九死に一生を得たというエピソードも我が家には残っている。
戦後は混乱期だったから、疎開の人、都会から引き揚げてきた人もたくさんいたし、お寺のお堂で暮らしている人もいた。子どもながらに、戦争の苦しさを垣間見た瞬間だった。中学校は、上山下分中学校(現在は神山中学に統合されて廃校)に入学した。私はお腹がゆるくて、中学時代は良く保健室に行っていた。そんな私がなんとバレー部と陸上部に入ることに。おじみそ(怖がり、弱虫)な私と友だちを誘ってくれた先生がいて、「まぁ、やってみるか」と気楽な気持ちだった。結局、ボール拾いだけだったけど、いい経験だった。陸上部では、高跳びの選手。パーンと踏み切って、飛んだ瞬間、ふわりと身体が浮いて、本当に気持ち良くて、宇宙にいるような気持ちがした。家の手伝いで配達をしている時も、川に飛んでしまい、大怪我をしたこともあった。振り返ってみると、私はけっこうおてんばだったかもしれない。
その後、農林高校家庭科に進んだが、家の手伝いも忙しくて、思い出といえば、友だちとの映画を見たこと。『金色夜叉』や『君の名は』などは神山でも見ることができた。
夫との出会い、そして結婚
夫である新田藤吉と出会ったのは、高校を卒業して、親戚の日用品店『粟飯原商店』を手伝っている時だった。従姉妹の粟飯原育子ちゃんが高校を卒業して、徳島市の『原裁縫技芸女学校』に行くこととなり、人手が足りなくなったからだ。夫はその店の客だった。
夫が、下分のスキーランドの近くに住んでいて、山で仕事をしていることは知っていた。「背が高くて、優しそうな人」とは思っていたけれど、結婚まで考えたことはなかった。時折煙草を買いに来るだけの夫と特に進展があるはずもなく、日々過ごしていたが、山の仕事にも関わりがあった粟飯原の叔父が間に入ってくれて、結婚することとなった。昭和35年の桜の季節4月10日の春の日、今の上皇様と上皇后様が結婚するちょうど1年前の日だった。
この神山は今も昔も林業の町だ。多くの人が大切に木を育てて山で働き、生業としてきた。山を開き、道を作り、杉や檜の苗を植え、5年ぐらいは木の成長を促すため、背丈の低い木や雑草などの下草を刈り、切り出すまでは何十年もの時間がかかる。夫もその一翼を担ってきた。
毎朝、仕事に行く夫のために私にできることは弁当を作ること。山で働く人は、『丸めんぱ』という木できた深い丸型のお弁当箱を持っていく。中には、ごはん、しょいの実(しょうゆの実)、煮豆、イリコ、ウメを入れた。山の仕事は重労働で、味の濃いものが中心だ。山では、10時と14時におやつの時間があるので、甘いいで干し(干し芋)もたっぷり入れた。仕事から疲れて帰ってきた時の「ただいま」という優しい声は今でも覚えている。その後必ず義父(夫はもともと西家の人間で、新田家の養子となった。私は夫が新田家の養子になってからお嫁にきた)のもとへ行き、「お父さん、ただいま。今日は寒かったな」と声をかけ、子どもたちをお風呂にいれる。温かく柔らかな時間が流れていた。
夫の死、思い出が欲しかった
夫は、38歳の時に山の事故で死んだ。昭和46年10月9日だった。正直、その時のことやその後しばらくのことは、よく覚えていない。泣いたのか泣かなかったのかもさえ突然すぎて覚えていない。きっと泣いたんだろうと思う。救急車などない時代、担架の代わりの雨戸を仲間が持ってきてくれたという。そこに夫を乗せて、ロープでしばって、山を降りたと聞いた。病院で対面した夫の顔は無傷で、きれいだったけど、汚れた服をハサミで切ってみると身体は半身真っ黒。それははっきりと覚えている。夫が永遠の眠りについても身体にはまだ温もりがあった。
結婚生活は10年あまり。夫は山の仕事、家では田んぼや蚕も育てていたし、子どもも小さくて、毎日が忙しかった。もっと思い出が欲しかったな。今、思うと夫との思い出がそんなにない。もっと、もっと、思い出を作りたかった。一緒に時間を過ごしたかった。
夫がいなくなって悲しみから立ち上がる
子どもは3人。長女は小学校2年生、長男は5歳、次女は2歳だった。黙っていても明日は来る。家族で明日を迎えるために、育ち盛りの子どもたちに、今日も明日もご飯を食べさせなくてはいけない。学校へやって、社会へ出さなくてはいけない。私もまだ30代で再婚の話はいくつかあった。でも、誰かと結婚するなんて考えたことはなかった。知らない家に入ったら、この子たちが苦労をするのは、目に見えている。だから、この子たちと4人で暮らすことに決めた。私の大切な子どもたちだから、そう決めた。
生きていくため、私にとって、「こんな仕事は人生初めて」という仕事でもたくさん働いた。当時、子どもたちを養うために何でも取り組む精神で、男性が中心の建築現場にも飛び込んだものだ。男性ばかりの労働者の中に女性の私を温かく迎え入れてくれたのは、下分で土木業を営む株式会社南本組の南本芳男社長だ。ネコ車(土などを入れて運ぶ一輪車の総称)にいっぱいの土を載せて、積み上げて用水の堰堤を作る仕事もした。重労働ではあったが、南本社長はいつも優しくて、休憩時間にお茶とお菓子を出して男性も女性も分け隔てなく労ってくれた。あの時独り身の私を気遣い、手を差し伸べてくれた南本社長に心から感謝している。
マンホールの中の掃除も初めてのこと。マンホールの蓋の下に自分が入るとは思ってもみなかった。中に入る時は、酸素マスクをつける重装備。全身はかっぱ、長靴を履いて、中ヘ中へと入っていく。そして、中を流れる下水道のゴミを汲み上げ、バケツに入れてマンホールの外へ出す。この仕事は必ず2人一組で行った。他にも繊維工場で、シャツの襟にアイロンをかけて形をつける仕事にも行った。
今、思えばいろんな仕事してきたものだ。その後、40歳近くになってから、縁あって下分幼稚園や小学校の用務員、給食センターや老人ホームなどの仕事を得て、定年まで働くことができた。少し、生活が安定してきてほっとしたことを覚えている。
これらの仕事で私は社会保険や年金に入ることができ、80歳を過ぎた今もお金の心配をせず暮らすことができている。
笑って、泣いて、また泣いての熱海旅行
私にとって、80歳の傘寿は、生涯忘れられないものとなった。子どもたちが傘寿の祝いにと孫たちと一緒に熱海旅行を企画してくれたのだ。ホテルはゴージャスなクラシックホテル『ホテル・ニューアカオ』入った途端ワクワクした。次女夫婦が静岡に在住していたこともあるが、熱海といえば、青春時代に見た映画『金色夜叉』の舞台ではないか。町中には『貫一・お宮』の顔はめのパネルがあって、そこに顔を入れて、気分はすっかり主役の『貫一・お宮』になっていた。いっぱい写真を撮って、娘時代を思い出した。
その時もらったこのカードは、大切な宝物だ。花束型のカードを開くと、みんなが書いてくれた言葉が出てくる。その一文字、一文字を見るとまた涙が出てくる。「幸子スマイルで、みんなを幸せにしてくれてありがとう」「いつもありがとう。これからもずっと元気でいてね」「ばあちゃんの笑顔が大好きだよ」「ばあちゃんの作るおはぎ大好き!」ひとつ、ひとつメッセージを読んでいると、また涙が出てきた。
旅行の時も、何回も泣いて、泣いて。観光地を巡っている時、ホテルで食事をしている時、みんなで歌っている時、孫に「ばあちゃん、なんで泣くん?」と聞かれた。「嬉しいんよ」と私。せっかく、頑張って化粧をしてきたのに、みんな取れてしまって、みんなで大笑い。「あぁ、なんて幸せだろう」と思った。
父親を小さい時に亡くして、一番親がそばにいなくてはいけない時期に私は仕事ばかりだった。子どもたちの学校行事は、叔母(父の妹)に任せきり。幼稚園の親子遠足も行ってあげられなかった。一度だけ次女の参観日に行ったことがある。偶然働いていた土木現場が小学校の近くだったのだ。私は、長靴にエプロンで学校までの道を急いだ。無事、参観に間に合って、娘は、「お母さんがきてくれた!」と泣いて喜んでくれた。でも、参観にきた保護者の中には、「そんな格好でなんで学校にきたの」といった目で見る人もいて、とてもつらかった。
長女も、長男も、次女もみんな気持ちの優しい子。長女の典子は、よくご飯を作ってくれた。おじや、そば米汁、そうめんと白菜、大根などの野菜が入った味噌汁、どれも美味しくて、その温かさが疲れた身体と心に沁みた。
そんな子どもたちがすくすくと成長して、家庭を持ち、私を家族とともに旅行に招待してくれた。こんな日がくることを想像もしていなかった。この旅行のことは、何より大切なキラキラと輝く私の宝物だ。
私は今幸せだよ
夫が亡くなり、子どもたちと生きることを決めた時、「自分の人生を誰かに寄りかかって生きていくことはしない」と思って生きてきた。でも、今振り返るとたくさんの人に助けてもらった。仕事を紹介してくれた人、夫が亡くなった時「もう私には育てられない」と捨てようとした蚕を「お金になるんだから捨てたらあかんよ」と代わりに育ててくれた人、学校行事に行けない私の代わりに日頃から子どもたちのめんどうをみてくれた叔母、辛い仕事もあったが、その仕事があったからこそ、ご飯が食べられた。
たくさんの人のおかげで、私と子どもたちとの人生を今につないで、子ども夫婦、孫、ひ孫とともに笑顔で笑いあえるがある。ただ、ただ感謝しかない。私は、この神山でこれからも生きていく。生活改善グループで作るお団子やクッキー、もろみもどうにか作り方をつないでいって、次の時代を生きる子どもたちに食べてもらいたい。自分一人では何もできないが、仲間とともに、これからも私にできることはなんでもやっていく。
神山町の成人大学では、神山町の歴史や、神山まるごと高専の見学に行ったり、美味しい給食を食べたり、いろんなことを勉強させてもらっている。もちろん、持病もあるけれど、毎朝6時に起きて、ラジオ体操をし、畑では野菜や花を育てている。
みんなありがとう。従姉妹の育子ちゃんいつもありがとう。私の大切な子どもたち、典子、和希、知子、ありがとう。助けてくれた人、出会った人、みんな本当にありがとう。
これだけははっきりと言える。私は今、毎日とても幸せです。