このページをご覧いただき感謝申し上げます。本ページは南本組 南本芳男の自分史ウェブサイトです。このサイトでは、神山町で歩んできた私の人生を自分史としてまとめました。ぜひ、ページ下部より感想などをお寄せください。


南本芳男(みなみもとよしお)取材当時79歳

株式会社南本組 会長

下分まちづくり実行委員会 委員長

徳島県神山町下分(しもぶん)地区にて、先代より土木工事業を営んできた。主に道路工事を中心に請け負い、下分地区の道路の多くを手掛けてきた。現在は、下分まちづくり実行委員長として、地域活性のために尽力している。


佐那河内村と神山町を結ぶ全長1,387mの新府能トンネル。これは、神山町の地元建設会社の大南組、名正建設、西森組、拓洋建設、南本組の5社でコンクリート巻き立て工事を担当した。南本組が中心となって15ヶ月に渡り取り組んだこの大工事は、神山町の発展のために欠かせない大きな仕事であった。こういった地元の人々の暮らしを支える仕事に、地元企業と手を組んで挑めたことを誇りに思う。土木工事業者として神山町の人々と共に歩んだ私の人生の道のりを、自分史として語ろうと思う。
※巻き立て工事とは、トンネル壁面をコンクリートで補強する工事のこと

幼少期と家族について

小学校のころから親の農業を手伝う

昭和19年4月21日神山町下分生まれ。父 南本高好、母 アサノのもとに6人兄弟の長男として生まれた。家は農家として、麦、米、雑穀などを栽培していた。決して裕福とは言えない生活だったが、兄弟や地元の友人と楽しく幼少期を過ごしていた。

幼いころは、山遊びをしたり、棚田で飛んだり、滑ったりして遊んでいた。川遊びは親が危ないと言ってあまりさせてもらえなかったように思う。下分の私の住む部落には14軒あり(現在は8軒)、同い年くらいの子どもが沢山いて、絶えず7~8人で近所の田畑で遊んでいた。

昭和30年下分小学校※出典 IN神山

私は下分小学校に進学し、当時1学年2クラス78人ほど同級生がいたのを覚えている。昭和30年ごろ、地区の運動会には多い時で600人くらい来場者がいた。現在の下分公民館のあたりに学校があり、あの一帯で大いに盛り上がったものだ。

一方、小学生にもなれば、家の農業の立派な労働力となる。親の農業を手伝うことが日課で、トラクターがない時代、農耕牛の世話をしながら、牛と共に農業にいそしむ小学校時代であった。周りの家も農家ばかりであったため、小学生が家の農業を手伝うというのは、ごく自然で当たり前の事であった。友人が「家の畑が終わらんと遊べん」と言った際には、その作業を私も一緒になって手伝って早く終わらせ、遊びに出かけたものだ。

その後下分中学校に進学するが、当時は部活がほぼ存在せず、小学校のころと同様に放課後は家に帰って農業を手伝うことが日課であった。私自身も、学業よりも畑仕事の方が面白いと感じており、当然のように毎日毎日家族と共に畑仕事をしていた。

高校は城西高校神山校の農林課に進学し、自転車でガタガタ道を通学した。このころは、バレーやテニスや卓球などの部活があったと思うが、私は一切やらなかった。高校に通ううちに土木に興味を持ち、農業の傍らで土木業をして暮らしていきたいと考えるようになった。そして、高校卒業後、南本組に入社することとなる。

妻と子どもたちについて

昭和44年1月7日、同じ神山町下分出身の3つ年下の公子と入籍した。きっかけは母の強い勧め。私はもともと公子とは知り合い程度だったのだが、母と公子は仲が良かったようで、私が25歳、公子が22歳のときに結婚することとなった。大恋愛・・・というわけではなかったが、母が公子を気に入っていたので、嫁姑問題で板挟みになるようなことはないと感じた。

公子は農業が好きで、主に梅、すだち、ふきなどを育てていた。性格は温厚でおとなしく、口数が多いわけではない。我が家に嫁いできたときも、すぐに他の家族や兄弟たちに溶け込むことができた。コツコツと物事に対応するのが得意で、冷静。ケンカをすることはほとんどなく、農業の手伝いを進んでしてくれたことはとても助かった。良いときもそうでないときも支え続けてくれたことに感謝している。

南本芳男・公子結婚式

公子との間に長男の敏宏が生まれた。敏宏はまじめで友だちが多いタイプだ。素直に親の言うことをきいてくれ、仕事熱心でぶつかることも少なかったように思う。次男の秀行は学級委員長をするしっかり者。高卒で国交省へ就職し、今は愛媛の事務所で副所長をしている。長女の直美はわがままで甘えん坊な女の子だった。好きなことに取り組み、関西の大学に進学した後に、現在は結婚を機に徳島にUターンしている。

大きな問題もなく、家族仲良く過ごせていることを本当に嬉しく思っている。家族に支えられているからこそ、今があると感じる日々を過ごせている。

南本組として土木業に取り組む

南本組に入社し、土木業をスタート

南本組は、昭和30年私が11歳のころに父が代表として創業した。私は高校卒業後、自然な流れで南本組に入社し父親の仕事を手伝うこととなった。このころ、ちょうど農業に加え、土木業に手を出し始めた頃だった。しかし、昭和38年ごろというと、まだ重機などが十分に使えない時代。”手で掘る土木”からスタートだ。20代はとにかく身体を使って土木作業をする日々に明け暮れた。

手作業で道路を作る、直す、石垣を積む、維持する、土砂災害があればそれを復旧する。それは大変な作業であったが、持ち前の体力でなんとか乗り切っていた。同時に、この頃の日本は高度経済成長に伴って道路が発展する時代でもあった。リアカーがなんとか通れるくらいの道を3mの道にするような作業を日々行っていった。道ができればそこに物資を運ぶことができ、家ができ、人が住み始める。
道をつくるということは、大変な仕事であったが、人々の生活を創造することが出来ていることを実感できた。はじめてのユンボ(パワーショベルなどの掘削用建設機械の呼称)は昭和50年ごろ、私が30代に入ってからリースで使えるようになっていった。

昭和50年頃の芳男

代表取締役就任と父の死

南本組を株式会社に発展させたのは、昭和50年。私が31歳のときだった。このとき、父親から代表権を譲り受け、代表取締役に就任したのである。その2年後、昭和54年。父親が72歳で心臓の病気で他界した。従業員が30名いる中での突然のことに私も従業員も戸惑ったが、父から受け継いだこの会社をしっかりと継続していこうと決心し、より一層仕事に注力した。

道路工事というのは、1社が全て担当するのではなく、いくつもの業者が専門性に特化して業務を行う分業制となっている。主に一般土木、舗装工事、道路維持工事、橋梁工事などがある。

南本組が担当するのは、一般土木と呼ばれる分野で、主に道を広げる、狭める、石積み、土砂崩れを防ぐ山腹工事などを担当している。私達が整地した道路は舗装業者に引き渡され、アスファルトを敷き詰めていき、道路維持工事業者が標識を設置したり白線を引いたりする。こうやっていくつもの業者の手を介在して、一本の道路が作られるのだ。

当時の会社の業績は非常に良好であった。下分から上分に抜ける南本組の事務所の目の前の国道も、私達の仕事だ。土木作業は危険も伴うため、安全管理を第一に行ってきた。一部従業員の打撲、多少の怪我はあったものの、人命に関わるような重大事故は一切ないまま今日を迎えられている。

昔の事務所の様子
工事現場の芳男
工事の様子

毎年慰安旅行に出かけるほどの好景気

30代から50代にかけて、様々な建設現場用機械が登場し、建設技術も発展していった。それに伴って、我々も道を整地化する道路工事に留まらず、大規模な山腹工事などを任されることも増えてきた。事業の幅が広がると共に従業員も増えていき、多くの従業員が家の農業と掛け持ちで仕事をしていて、農閑期に手伝ってくれることが多かった。地元の方々の協力のおかげで、発展していくことができたのだ。

1998年社員旅行@天橋立

そのころの業績は順調で毎年従業員と共に慰安旅行に出かけていた。行先は多岐にわたり、東京、茨城、長野、鹿児島、岐阜など国内は色々と出かけた。また、海外は中国や台湾などを訪問した。従業員にこのような形で報いることができたのは、彼らが頑張ってくれたおかげであり、私どもを信頼して仕事を任せ続けてくださった、神山町のおかげでもある。

2012年社員旅行@中国

政権交代で仕事が激減

私の人生で一番しんどかった事と言えば、政権交代に伴って国の方針が代わり、公共工事が減ったときのことだ。当時、”コンクリートから人へ”といったスローガンが掲げられ、ダムの建設などがストップしたことでニュースとなった。その影響は、神山町のような小さな町にも及び、国や自治体からの仕事が半分以下に激減したのだ。

南本組は主に道路工事などの土木業が事業の中心であったため、売上の9割が国や自治体からの仕事であった。売上の大半がなくなってしまい、20人近くの従業員に辞めてもらうこととなった。多くの苦楽を共にした仲間を失い、落ち込んだ。”仕事がない”ということがとても辛く、どうしようもないことに頭を抱えていた。

働くことができるから、楽しくなるのだ。働く場があるから、その仕事で人々を幸せにできる。仕事を失い、人を失うということが、こんなにもみじめなのかと思い知らされる出来事だった。

政権が再度交代し方針が変わって、すぐに元通りになったわけではないが、少しずつ仕事の発注は戻っていった。しかし、一度辞めた従業員が簡単に戻ってくるわけではない。時の政権に振り回される現実の厳しさを噛み締めるしかなかった。

新府能トンネル開通にむけて5社と連携

ここで事業を行って約70年。仕事の数だけ、工事の完成を見てきた。やはり、ひとつの現場が完成し、人々のインフラがひとつ、またひとつと形になっていくのを見るのは嬉しいものである。

中でも、一番達成感があった仕事は、2007年の新府能トンネルの完成だ。新府能トンネルとは、佐那河内村と神山町を結ぶ全長1,387mに及ぶ長いトンネルだ。もちろん、国道のトンネル採掘は、我々のような土木事業者が主体となって進めるものではない。鹿島建設・フジタなどの大手企業が採掘作業を進める中、一部の工程を地元事業者に任せてもらえることがある。

新府能トンネル神山側

そこで、神山町の地元5社と連携し、新府能トンネルのコンクリート巻き立て工事を担当することとなった。巻き立て工事とは、トンネル壁面をコンクリートで補強する工事のことである。南本組が中心となる形で、大南組、名正建設、西森組、拓洋建設に声をかけ、それぞれが連携することで工事が進められていった。

思い出深いのは、トンネルの貫通式のこと。貫通式とは、トンネルの穴掘り段階で穴が貫通する寸前まで行った際に、ダイナマイトでドカーンと爆破させ、打ち抜かれたことを祝う工事業者達が行う式典だ。その後、事業者達でお祭り騒ぎになるのである。これで神山での人々の暮らしがより良くなる!と心躍る瞬間であった。

新府能トンネル佐那河内側

ちなみに、トンネル完成後の開通を祝う”開通式”というのは、大手のお偉いさんらが出席するため、建設に関わった我々地元作業員は呼ばれない。開通式に立ち会うことはできなかったが、新府能トンネルが開通したというニュースを聞き、誇らしく思った次第だ。

今でもトンネルを通るたびに、「ここで仕事をさせてもらったんやな」と感謝の気持ちがわいてくる。毎日、このトンネルを通って多くの人が神山町を訪れる。この大きな公共工事に携われたことは、私の人生の誇りである。

下分まちづくり

下分の地域づくりを推進

73歳の時に南本組の代表取締役を息子の敏宏と交代し、私は会長職となった。そこで、会社の代表としての活動は一旦区切りとし、会長として古いお客様との関係を維持しつつ、空いた時間で下分まちづくり実行委員会の活動を積極的に行うようになった。

下分まちづくり実行委員会は、チャレンジ神山推進協議会の組織であり、下分地域の有志が参画している。このまちづくり事業は、地域が寂しくならないように、活気づけや地域コミュニティの活性を目的として活動しているものだ。

下分まちづくり実行委員会の活動で有名なのは、下分の七夕祭り。大きく鮮やかな七夕飾りを下分公民館を中心に飾り、祭りの日を含め多くの人で賑わう。感染症の影響で何年も開催できないことが続いていたが、ようやく今までの活気が戻りつつある。

下分のまちづくり活動には一定の成果が出ていると考えている。例えば、敬老会などは他地域でも開催されているものであるが、その多くが対象者の20~30%の人が顔を出せば良いほうである。一方、下分の敬老会には対象者の40~45%以上が参加する。皆が集うことに前向きで、それを楽しんでくれている証拠だ。

下分まちづくりを支える仲間の存在

そして、この下分の活動に欠かせないのが、松浦ひろみさんの存在だ。「ひろみさんがおらなんだら、ようやれへん」というのは、多くの下分地区のメンバーが共感するところであろう。彼女の行動力、周りを動かしていく力、気配り力は素晴らしいものがある。多くの人が彼女に助けられていて、なくてはならない存在だ。彼女が、下分の地域の皆を鼓舞してくれ、私にも勇気と元気をくれる。士気が下がってしまっては、地域は良くなっていくことはない。信頼できる仲間と共にイベント運営を通じて、下分をより魅力的な地域にしていきたいと願う。

彼女だけではない。下分には前向きな人材が多い。だからこそ、年中イベント事業を実行することができる。

冬:新春完歩 約6kmほど下分の町内を帰省中の人も含め歩く。毎年100人程が参加する

春:桜祭り 明王寺しだれ桜を眺めながら多くの出店者と見物客などで賑わう

夏:七夕・夏祭り 色鮮やかな七夕飾りとダンス・阿波踊り・各種出店などで盛り上がる

秋:敬老会・防災訓練 防災の啓発活動に加え、敬老の日には地区のお年寄りの健康長寿を祝う。

他地域、県外から多くの人が訪れ楽しんでくれるイベントに成長してきているものも沢山ある。こうやって、多くの人が楽しんでくれる場を提供できるのは、非常に嬉しいことだ。

「いつまでもやってやろう」という意気込みで

最近、敬老会については開催する立場でありながら、自分も祝われる対象となってしまったため勇退し、後任に引き継いだ。自分で自分を敬老しているというのは、なんとも滑稽な話である。ただしこれは、それだけ下分地区も高齢化しているということの象徴でもある。神山町は一時期、人口社会増を達成することも出来ているが、高齢化に歯止めが利かず人口は減るばかりである。

下分まちづくり実行委員会には、ぜひとも若い世代の方も携わってほしいと思っている。移住者の方も前向きな人材が多く、助けられている。最近は神山まるごと高専の開校に伴って、イベントに顔を出してくれる10代の若者が増えた。

若い人が増えることによって、イベントも活気が増してくる。より多くの方にご参加いただき、下分の魅力を存分に味わってもらいたいと思う。そして願わくば、一緒にこの活動を推進してくれる若い世代が増えて欲しい。

もちろん年齢のこともあるが、心の中ではこの地域づくり活動を”いつまでもやってやろう”というのが本音だ。

いつのときも人にはどうしようもない困難があるものだ。

ただ、どんな困難な状態を経験しても、人の心は温かく変わらない。

下分に生まれ、下分で暮らして79年。下分まちづくり実行委員会の活動を通じて、私達に元気を与えてくれる下分というふるさとを、もっと盛り上げていきたいと思う。


株式会社南本組
〒 771-3421 徳島県名西郡神山町下分字北宇井26

会長 南本芳男
代表取締役 南本敏宏

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