たこ焼き屋 たこびんは神山町を拠点とするたこ焼きの移動販売店です。
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たこ焼き 10個 500円
ソース
しろやき(ソースなし)
ハーフ&ハーフ(ソース5個&しろやき5個)

営業日・販売エリア

毎年9月中旬~5月中旬まで営業しております。

営業時間
10:00~17:00ごろ(売り切れ次第終了)
営業日
金曜日 神山町広野支所付近~下分郵便局付近~午後ショップかたやま21 
土・日・祝 神山町神領青井夫 木のまち神山看板付近

休業日
月~木 定休
※祝日のうち月~水は定休
※イベント等の出店は休日・期間外問わず承りますのでお電話ください。

連絡先

店主 河野敏
河野敏Facebook 
TEL:090-7625-7956

神山町に視察にお越しの皆様は、神山の見どころ、魅力、町民の目線で見てきた神山の変化などお話しします。営業時間中に神山にお越しの際にはぜひお立ち寄りください。

たこびんのおっちゃん河野敏のストーリー

神山で生まれ、神山で育った幼少期

昭和33年1月1日生まれ。取材当時65歳。神山の自転車店の長男として生まれた。
生まれは徳島県神山町の神領。幼少期は川や山で遊び、わらびを取っては小遣い稼ぎをしていた。のちに名人の腕前となる、鮎釣りは、10歳のころからやっていた。釣れた鮎を近所のおじいちゃんのところへ持っていくと、100円で買い取ってくれたものだ。

その後、1期生として神山中学に入学。中学時代は神山町で過ごし、その後、
職業訓練校へ自動車整備士の資格をとるため2年間通っていた。
17歳で徳島三菱に就職。徳島三菱には2年在籍して2級自動車整備士を取得したが、より給料の良かった市内の町工場に19歳で転職。町工場で自動車整備士をしていた。

左が敏

25歳で跡継ぎとして神山町に戻る

父親が営んでいた、自転車販売店を次いで自動車修理販売に業態を変更。戻った当時は売上もピークだったが、その後人口減少をともに、売上が下がっていった。
そこで、副業としてあゆの友釣りを開始。あゆの友釣りの技術を高めていった。
鮎釣りはコンテストに出ることも多く、多くの大会で優勝を果たし、第42代の鮎釣り名人の称号も得ている。

40歳のとき、自動車修理販売で生計を立てることが難しくなり、徳島市内で徳島ラーメン店を開業した。しかし、当時狂牛病で、肉食離れがおき、飲食店はさんざんな目にあった。2年頑張ったものの、借金を背負って閉店。
妻と子どもがいる中で借金1100万を背負って無職となった。

あゆ釣り第42代名人の称号を得る

借金返済のためにはじめたたこ焼き移動販売

42歳、露頭に迷っていたところ、自動車を販売してたときに、譲り受けたたこやきのキッチンカーをのことを想い出し、移動販売のたこやき屋を開業。
ラーメン店をしていたときにこだわっていたとんこつスープを活用したたこ焼き屋をはじめた。

たこ焼き屋と鮎釣りの二つの収入の柱で借金を返済していくこととなった。
鮎釣りは季節が限られているため、鮎釣りができない時期は、たこ焼き屋として町内を営業するスタイルが定着していった。

あゆつり 6月~10月中旬まで。
たこやき 9月中旬~5月中旬まで。

借金返し終わったのは、52歳のころ。そのころ妻と離婚。娘が中1のときに父子家庭となった。
不登校の娘を支えながら、ときにたこやき販売を手伝わせながら、高校は市内の高校に進学することとなった。

敏(左)と両親

たこびんが65年見てきた軌跡の田舎神山町の発展

神山町は奇跡の田舎としてうたわれ、多くの移住者が革新的な取り組みを行っている。
町民の視点からその変化を見てきたが、移住者が成し遂げてくれたことは本当に素晴らしいことだと思う。

ただし、移住してきた人がすべていい人ではなかった。それを目の当たりにしてしまった町民の中には、新しい動きを警戒する人も出てきた。
実際に、誰もが良い人ばかりではなく、町民とうまくやっていけない人もいた。
私はいろんな町民の声をたこやきを焼きながら聞いてきた。
私個人としては、神山町の変化をとても歓迎している。しかし、そうでない側面も併せ持っているということを伝えたい。

神山の変化の中で印象に残っているのは、大南さんをはじめとるするグリーンバレーの活躍だ。町民自らが立ち上がって行う取り組みは多くの人が応援していた。また、えんがわオフィスの隅田さんがきてくれたときも、大きな良い変化をもたらしてくれた。
隅田さんを筆頭とした街づくりはとても影響力があり、神山の希望になっていった。

ここ2-3年神山に入ってくる人は素晴らしい人ばかりだという印象がある。神山まるごと高専の設立に合わせて
多くの人がこの町に引っ越してきてくれたが、町にとってありがたい変化をもたらしてくれていると思う。

露天商を見下す人はそれでいい。私はこの仕事にプライドを持っている

露天商としてたこやき屋をやっていると、それだけで「こいつは底辺だ」と見下してくる人がいる。
ただ、私はそれでいいと思う。私を見て、優越感を感じて安心するならその人の力になろう。

私はたこやき屋に自信とプライドをもっている。

何かを思い、この田舎道を歩く人々を、1個のたこやきで感動させられることがある。
誰に何をいわれようとも、ただ味を追求して、美味しいたこやきを作り続けたい。

この思いがあるから20年以上やれている。そして、ずっとこの場所でたこやきを焼き続けたいと思う。

今が一番楽しい。
お客さんと笑い合いながらたこやきをもっと美味しく焼けるように精進していく。

80歳まであと15年。


動けなくなるまで、この神山という田舎町でとびっきり美味しいたこ焼きを焼いておまちしています。


このページは、神山町を拠点に自分史サイト制作事業を営む、女性ウェブサイト制作チームAYAクリエイティブによって制作されました。本ページに関するお問い合わせはAYAクリエイティブのお問い合わせフォームをご利用ください。

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