粟飯原一(あいはら はじめ)
てくてく栗生野 代表
1956年3月26日徳島県神山町生まれ。取材当時66歳。
神山町役場に奉職後、観光産業課・教育委員会・議会事務局長などのキャリアを築き、神山町の観光を役場の立場から盛り上げてきた。60歳で神山町役場を定年退職し、退職金を投じて民間のコミュニティスペース「てくてく栗生野」を夫婦で設立。てくてく栗生野は年間100回以上サロン活動行い、来所した年間延べ人数は1500名にのぼる。自治体職員として働いてきた「官」の経験と、定年後起業して創り上げた「民」の両方の良さを活かして、神山町民に寄り添った施設運営を行う。
神山町役場を定年退職して6年。振り返って思うことは、役場の中ではずっと浮いた存在だったなということ。ゼロからモノコトを生み出していくことが得意で、マニュアルに従うのが不得意だった。役場の担当者らしくない、はみ出し者だったなと感じる。
退職金を投じて、自身の自治体職員としての経験と、妻 百合子の看護師としての福祉経験を活かし、地域交流施設「てくてく栗生野(くりうの)」を設立した。この民間交流福祉施設が官民福祉の架け橋になることを目指している。
神山町で生まれ、神山町で学び、神山町で働いてきた自分が社会に何が還元できるのか。私の人生を自分史として振り返ると共に、今後について語ろうと思う。
目次
生い立ち
神山で生まれ、神山の自然の中で育つ
私は1956年(昭和31年)、農家を営む父 正男、母 恵美子の長男として誕生した。生まれも神山、育ちも神山、就職も神山、定年退職後も神山で活動し、町と共に成長してきた人生だったと言える。
幼いころは川遊びや山遊び、刃物で木を削って大工遊びに夢中になっていた。のこぎり、鎌、ナタなどの刃物を勝手に持ち出していたが、そのことを叱られた記憶はない。私には2人の姉がいたが、基本的には一人遊びを好み、集団で遊ぶときは近所の男の子たちと外で遊びまわっていた。
私が入学したのは神山町の下分小学校。当時の学年は60人で2クラスだった。小学校時代は、スター的な存在とはほど遠い、おとなしい子であったが、学力の成績は優秀な方であった。前述のとおり、自然の中で遊ぶのが好きで、道具を持って森に入り、簡単なハウスを作って寒さをしのぐようなことはできた。神山の大自然の環境下でたくましく育ち、自然と共に生きる知識は身についたと思う。
その後、下分中学校に入学し、過激なことが苦手であったことから卓球部に所属していた。目立った活躍はなく、淡々と過ごしていたように思う。学業は取り立てて優秀ではなかったが、学校での授業は真剣に受けていた。私は下分中学校の最終卒業生で、私の代で下分中学校が休校となり、その後、神領・鬼籠野・下分・上分中学校が「神山中学校」として統合した。当時5校あった中学校は、私の卒業後に、神山中学校と神山東中学校の2校になったのだ。2023年現在は、町内の中学校は神山中学校の1校のみとなっている。こういった学校の統廃合からも、神山の過疎化は肌身で感じ取っていたと思う。
徳島市内の高校へ進学
現在の日本の高校進学率は97%(文部科学省調べ)であるが、私が下分中学校を卒業する際の進学率は81%で、54名のうち44名が進学を選択していた。進学する生徒はほぼ全員が徳島市内の高校に進学することになり、親元を離れて下宿していた。私も下宿先で同年代の生徒と下宿生活を送りながら高校に通うことになった。
高校で徳島市内にて下宿をスタートしたとき、田舎育ちの私は事あるごとにカルチャーショックに打ちのめされていた。神山にはジャンクフードは一切ない。マクドナルドの仕組みがそもそも理解できていなかった。市内の街並みも、仕組みも、暮らしもあまりなじめなかったように思う。
高校進学後も、集団行動が苦手だった私は浮いていたと思う。集団がいたら、後ろからひょこひょこついていくようなタイプだった。以前から鉄棒なども器用にできていたので、高校1年で体操部に入部したが、体操はとにかく「痛い」という思い出が強い。棒に当たったり、落ちたり、打ったりととにかく痛いのが怖かった。痛い思いをするのが嫌で1年で体操部を辞め、中古のカメラを1台だけ購入して高校2年生から写真部に入部した。そこで写真を撮る技術を磨き、それが今ではライフワークとなっている。
社会人になってからはカメラにさらにのめりこんでいって、どれだけ買っただろうか。家1軒分くらい使ったかな・・。お気に入りはデジタル一眼レフでNIKON製のカメラだ。
役場に就職し、青年の船をきっかけに仕事に打ち込む
高校卒業後、徳島市内の暮らしになじめなかった私は、神山町の役場に就職することを決意する。18歳で配属されたのは税務課。今では笑ってしまう話だが、まだパソコンのない時代、下っ端の私には「字を上手く書くこと」と、「そろばんを正確に扱うこと」が求められた。昭和50年というと、神山の黄金時代であり、林業が特に栄えていて皆潤っていた。山林をめぐっては「無申告伐採による所得隠し」がないかを見つけに行く、そんな役人っぽい仕事を担当していた。
写真を趣味として楽しむ一方で、陸上にも夢中になって取り組んだ。18歳で100m走の競技で県の青年大会で優勝し、全国青年大会の100m県代表となった。その後、20歳で名西郡の選手として徳島駅伝に挑戦し、神山駅伝も31年間走り、ランナーとしても社会人人生を送っている。
24歳の頃、今後のキャリアの方向性にモヤモヤしはじめ、自分を見つめなおす機会として、青年の船に参加したいと上司に申し出た。青年の船とは、内閣府青年国際交流事業の一つで、18〜30歳の青年が世界各地から集まり、船内で1ヶ月共同生活をしながら、コミュニケーション力、リーダーシップ力を向上させるプログラムだ。
青年の船に参加して気づいたことは、田舎で働いていることを卑下する必要はないということだ。300名のメンバーの中で、当然リーダー的存在が10名ほど出てくるが、私はその10人のうちの1人に入ることができた。神山のような田舎に住んでいようと、技術があれば世界の人を相手に活躍できるということを実感できたのだ。
ここで、様々な迷いがふっきれて、「よし!神山町のために役場で活躍するぞ!」と鼻息荒く自分のデスクに戻ってきたものの、周りとの温度差がさらに際立つこととなり、ますます役場内で浮いた存在になっていった。
その後、電算化の波がおき、当時からパソコンが得意だった私は、オフィス改革に乗り出すこととなる。税業務の電算化・住基ネットの電算化などにも取り組み、役場内でも”パソコン関連で困ったら呼ばれる人”になっていった。
家族
30歳を過ぎて真剣に結婚を考えはじめたころ、“車いす友の会“の一泊旅行に写真係のボランティアとして参加したことがあった。妻の百合子は一緒に参加はしなかったものの、その旅行の関係者だった。半年後、その旅行の写真展の手伝いがきっかけで出会った。会場設営時に出された幕の内弁当を食べるとき、隣になったのだ。二人とも一番先に蓋についた米粒から丁寧に食べ、弁当箱の隅々まで一粒残さず食べきった。その様子を見てこの女性ならと結婚を決心。彼女も食べ物を粗末にする人は許せない性格らしく意気投合し、結婚に至った。
百合子とは、常に話をしている。ハッキリと自分の意見を言葉で表現できる有言実行の人だ。家庭人としてもしっかりしていて、料理上手。職場では理解されないことのほうが多い私であったが、百合子は私のことを一番に理解してくれる。彼女は私の人生になくてはならない存在だ。
百合子との間に長女の汐里(しおり)が誕生し、その後次女の友(とも)が誕生した。二人とも赤子のときはとても育てやすく、安定した子どもで、夜泣きなどもなかった。
汐里はスポーツ少年団の活動なども積極的に取り組み、コミュニケーションのとれるリーダー気質だった。派手なことが好きで、人気者であったように思う。
友は自己主張するタイプではなく、人の後ろを歩くタイプだった。ただ、成果が出せる慎重派で優秀だったと思う。汐里と友は神山町の下分小学校に通っていたのだが、私が体験したのと同様に、小学校の統合を経験した。親子で神山町の過疎化を当事者として体験することとなったのだ。
百合子は看護師として働いていたのだが、忙しい中でも予定を合わせて家族でよく旅行に出かけた。スキーやキャンプ、日本中を旅した思い出が懐かしい。二人の娘たちが立派に育ってくれて親としてとても嬉しく感じている。
神山町観光係のキャリア
神通滝「氷瀑」観光
役場に入職して26年。44歳のときに産業観光課観光係に異動となった。6年間観光課にいたわけだが、印象に残っているのは神山の上分地区にある神通滝が凍る「氷瀑(ひょうばく)」の観光イベントを実施したことだ。初年度は、50名の小規模なイベントだったが、それが年々規模を大きくし、5年目には501名が訪れてくださるイベントとなった。
1年目 | 50名 |
2年目 | 100名 |
3年目 | 250名 |
4年目 | 350名 |
5年目 | 501名 |
氷瀑は年や時期によって凍る規模感などが異なる。自然の摂理にしたがって、来年はまた違う美しさの氷瀑が見られるかもしれない、という期待感を持てるのが魅力だ。
神通滝周辺を整備し、神山の観光のけん引役となってくださっている、四国山岳植物園岳人の森の山田勲さん主導で、初年度、氷瀑ツアーに50名の募集をかけた。ただし、冬は足元が悪く、道中も危険。人を招くにはリスクがあるので、地元の方々と共に慎重に慎重を重ね企画したことを覚えている。当初からこの50名に思いっきり神山の魅力を感じていただこうと思い、おもてなしをした。結果、初年度の氷瀑ツアーは大盛況。そこから口コミが起きたのである。
2年目は定員を100名にした。2年目もこの口コミ効果のおかげもあってか、定員を超える応募があったのだ。しかしながら、ここでプチ失敗談がある。告知方法は主に徳島新聞に掲載されるイベント情報であり、申込をはがきで受け付けたのだが、この締め切りを週末に設定していた。締め切りを過ぎた月曜日の朝、出勤したところ、「粟飯原さ~ん、はがきがこんなに来てるよー」と残りの定員の3倍くらいの数のはがきが届いてしまい、”先着順”の順番がわからなくなってしまった。公平公正が重視される役場の仕事の中で、なんてことをしてしまったのだと猛反省し、落選された方に片っ端からお詫びの電話をかけることになった。
3年目からは多くの方が訪れてくださる算段もあったため、ツアーをせずにフリーに訪れてもらえるように設計した。”広報PRが行き届くと、人が集まってくれる”ということがこの経験から深く理解することができた。神山の観光を盛り上げたいと日々尽力される地元の方々と一緒に創り上げる経験ができたのも良い思い出として記憶に残っている。
神山観光PR資料作成
神山町観光課に所属していた際に、町外の方と会話する機会がたびたびあったのだが、神山はPRが下手くそだと言われたことがあった。こんなに素晴らしい町なのにどうして効果的にPRしないのだと。
当時は、PRできる手段も媒体もあまりなかった。そこで、私の大切にしている精神である、「ないものは作る」が活きてきた。写真が趣味でパソコンも得意だったので、「ないなら作っちゃおう」と取り組んだのである。そこで制作したのが、神山観光PRポスター9枚セットだ。
通常PRポスターを制作するにはまず写真撮影のためのカメラマンを雇って、デザイン会社に発注して200万くらいの予算を使う。これを自ら撮影し、自らデザインし、23万ほどの印刷代だけでやってのけた。このとき手掛けたポスター9枚セットは、20年たった今でも神山温泉などの施設に貼ってあるのでご覧いただきたい。
観光に対して強い思いを持つようになったきっかけは、配属直後の苦い思い出にある。観光係に配属されて間もないころ、1本の電話がかかってきた。課の新入りである私は問い合わせのあった場所について上手く答えられないでいると、電話口の相手が突然怒り出した。「なぜ役場の観光係が把握していないのだ!」と。相手はさんざん怒って電話を切った。「ああ、お客さんはちゃんと答えてあげられなかったら、怒るんだな…」と思った。そして、「この人は一生神山に来ることはないだろうな」と。この経験から、観光マップを作って、それをもとに町民誰もが町内を案内できるようになってほしいと強く思ったのだ。
現在も町内全域に配布されている春と秋のイベント情報チラシの初版を企画したのも私だ。あるとき、父が私の作った春のイベント情報チラシを持ってうろうろしていた。「今から友だちと桜を見に行くんじゃ」と。「いってらっしゃい。」と送り出したが確かな手ごたえがあった。 観光客が地元の人に町内のイベント情報を聞いたとき、さっと答えられるか、さぁ~?で終わってしまうかで観光客の印象に大きな差が出る。地元神山を愛する町民はたくさんいるからこそ、観光係として最適なパスを出せるよう全力で取り組んでいた。
教育委員会のキャリア
文化デザイン会議、国民文化祭
50代で教育委員会に異動し、2006年に日本文化デザイン会議、2007年に国民文化祭という大きなイベントを担当することとなった。
日本文化デザイン会議とは、3日間の一般参加型の文化イベントで、徳島県内の複数の開催地に合わせて独自のテーマを設ける。
そこで、神山の伝統的な催しであった「棒突き」を38年ぶりに復活させるという企画に取り組んだ。棒突きとは、家を建てるときなどに独立基礎として柱を建てる際の地面を固める作業のことである。ロープにくくられた棒を皆で引っ張ると上に持ち上がり、それを落とすことで地固めする。皆が息を合わせないと棒が傾くので、その仕上がりを競う「競技」としての側面もある。文化デザイン会議をきっかけにこの催しが将来にも残るように、棒突きの歴史や、図面などを資料化して残したのだ。私たちの後輩がこの文化を取り上げる際の参考になれば嬉しい。
翌年開催された国民文化祭も私が担当した。国民文化祭とは、地域の文化の祭典として、各市町村がテーマを設定してそれを文化的イベントとして、全県下で実施される催しだ。
神山町は、以下の3つの企画を中心にイベントを実施した。
- 棒突きの復活
- 農村舞台の復活
- グリーンバレーの手掛けるKAIR(アーティストインレジデンス)
農村舞台の復活として小野の桜の舞台で、人形浄瑠璃を実演した。やはり、舞台は演劇で活用されると、華やかさを取り戻す。当時はバタバタと動き回っていたが、多くの方に喜ばれるイベントを企画実行できたことは、役場で働いた42年間の中でもとてもやりがいのある仕事であった。こういった前例のない新規企画で成果を上げていると「なんで民間の方が向いてそうなのに役場に就職したの?」と聞かれる。今となってはこの経験が今のてくてく栗生野につながっているので、結果オーライということにしておこう。
指定管理制度でグリーンバレーが改善センターに常駐
指定管理制度とは、多様化する住民のニーズに効果的・効率的に対応するため、公の施設の管理を民間に任せる制度である。私は、役場側の担当者としてNPO法人グリーンバレーが神山町農村環境改善センター(以下、改善センター)に常駐する対応を進めた。
当時、グリーンバレーはNPO法人化し、神山の町おこしの活動を着々と進め、結果を出し始めていた。しかし、活動拠点がなく、当時の理事長の大南さんの会社の事務所に併設していた状態だった。
組織団体が活動する上で、拠点は重要な要素だ。そこでグリーンバレーに改善センターに常駐してもらい、施設管理を依頼しながら移住・定住促進の事業などを色々と幅広く任せることとなった。ここからグリーンバレーの活動がさらに注目を浴び、町に様々な好循環を起こした。町長の「民間に任せられるものは任せよう」という方針の先駆け事例となったのだ。
もちろん、このときの私の立場は「役場の職員」である。公務員らしく、ルールについて厳しくチェックし、指摘する役回りであった。心の中では皆の活動を応援していたものの、ずいぶん嫌われただろうな…とも思う。
町というのは、行政と議会とが両輪として動いているが、それに加えて民間にも町のことを扱う組織団体があったほうが絶対に強い。その三者が良好な関係で動いているのは神山の素晴らしいところだと思う。2023年4月に開校となった神山まるごと高専も神山町が安定しているからこそ成し遂げられたものではないだろうか。私は行政サイドの人間としてそういう三者が協力して取り組む姿勢を間近で体感できたことをうれしく思う。
てくてく栗生野の設立
定年準備
勤めている人は50歳ごろに、「今後どうしようか」と考え始めるものだ。私たち夫婦は定年後を意味ある人生にしていくためにあれこれ対話し、模索してきた。そして、私の長期間におよぶ行政でのキャリアと、妻の福祉施設での看護師としてのスキルとキャリアをうまく神山町で活かしていこうという話になり、それが、今の民間コミュニティスペースである「てくてく栗生野」のアイディアの種となった。
コミュニティスペースには「施設」が必要だ。私はパソコンで図面を描けるので、自分で土地を測量して、平面図、立面図も全部描いた。その後設計士さんにデータを渡し、2週間ほどで建築図面が出来上がった。宅地造成は自分で重機を操作して行った。石積みなども自分のペースで行っていった。全てを文字通り手作りで進めていった。
てくてく栗生野の建築
建築については、同級生に協力してもらい、発注も業者をはさむとその分高額になるため、自分自身で行った。大工の仕事も部分的に夫婦で分担して行った。
てくてく栗生野は、「近くの人がてくてくと歩きながら来てくれますように」という思いで妻が名づけた。56畳のホール、喫茶店、厨房、ゲストルームや入浴施設も併設する民間のコミュニティサロンとして平成28年11月26日に完成した。完成したときは多くの人に祝福され、感慨深い思いに浸ったものだが、その後夫婦でぐったりしてしまい、年末まで休眠していたことを思い出す。
てくてく栗生野は、飲食店営業、総菜製造業、菓子製造業、清涼飲料水製造業、簡易宿泊所、露店営業など様々な許認可を取りながら、多方面になんでも使えるようにした。まずは夫婦で「何をしようかな?」と考えていたところ、近所のおばあちゃんの一言からランチ提供をすることにした。
きっかけは、誰かの一言でいい。どれが良いのか悪いのかではなく、皆で話しながら、これをしようか~どうしようか~という流れでやることを決めている。
「許認可、設備などは万全に揃っている。やりたいことはやりたいときにすぐ始めよう」というのがてくてく栗生野のコンセプトだ。
このコンセプトをもとに、三味線コンサート、マルシェ、縫製教室などのやりたいことが実現している。
てくてく栗生野とは
てくてく栗生野とは、神山町下分地区にあるコミュニティサロンである。
演奏会、サロン活動、講演会などが実施できる56畳のホールと、簡易の宿泊施設、プロ仕様の厨房と喫茶スペースなどの設備が揃う。
取り組み
・ランチ営業:毎週木~日曜日に実施
・てくてく笑みの会:週2回のいきいき100歳体操や手芸、パソコン教室などの高齢者サロン(神山町地域介護予防活動支援事業)
・こども食堂:月1回(フードバンク徳島・子ども食堂ネットワークからの支援)
・フードパントリー:毎週水曜日(フードバンク徳島)希望者へ提供食材を配布
・お弁当パントリー:随時 体調不良者のいる家庭への支援。
・イベント実施:随時。やりたいことがある人が企画し、実行する
(2023年2月時点)
受託事業として、神山町地域介護予防活動支援事業、とくしま子どもの居場所づくり推進基金、秋山基金の財源をお預かりし、上記の取り組みを通じて地域に還元している。
年間100回を超すサロン活動などを開催し延べ人数1500名程が来所。フードパントリーは20家庭に提供している。
ユニバーサルカフェとして徳島県の認定を受ける
てくてく栗生野は2020年に徳島県よりユニバーサルカフェの認定を受けた。ユニバーサルカフェとは、子どもや高齢者、障がい者、外国人をはじめ、多くの方々が集い、それぞれが持つ悩みや経験を共有するほか、サービス提供の担い手ともなることで、多様なニーズに幅広く対応できる交流拠点のことだ。
行政は色々な施策を計画しても、どこで実施するかの判断で迷うこともある。そういったときにユニバーサルカフェの認定を受けていると、優先的に物資支援や助成などが受けられるのである。
フードバンクからいただいた食料などを、コロナで外出できないご家族に届けたり、体調を崩してしまった方に、妻が調理して食事を届けたりと柔軟に対応している。
今後と目指す未来
官制福祉と民生福祉の連携
私は、官制福祉と民生福祉の架け橋になりたいと感じている。なぜ、この架け橋が必要なのかを簡単にご説明したい。
たとえば、今ここにとある組織から提供されたごはんの材料があったとする。
てくてく栗生野のような民生福祉施設であれば、LINEで利用者に呼びかけて希望者にその日のうちに取りに来てもらったり、調理してそれを提供することで、届いた食材をその日の食卓に並べることができる。
これが、官制になってくると話は別だ。前例のないパターンで食材が提供されると、まず「どこの課が担当する?」という話になる。幹部が集まって健康福祉課?住民課?地域包括?と相談する。やっと決まったと思ったら、それを部署に持ち帰って、「誰が担当する?」という話になる。さらにこれを町民に公平公正に提供するにはどうしたらいいか?という話に展開し、結局この食材が町民の食卓にならぶのは、何か月先になるかわからない。
官制福祉が悪いという話ではない。行政は大きな予算を大勢を対象に平等にかつ正確に分配する必要があり、それに最適な組織運営がなされる。しかし、それでうまくいかない個別ケースについては、私たちのような民間が力を発揮するのである。
そして、私たちが町民一人一人にサービス提供する過程で得た経験や結果を再度官にフィードバックするのだ。これによって、官制福祉も改善される可能性が高まる。この官制福祉と民生福祉の良い循環を作り続けていきたいと考えている。
てくてく栗生野の今後と目指す未来
私はてくてく栗生野を通じて「好きなことをやってみればいい」というメッセージを伝え続けていきたいと思っている。
私の場合は、幸いにも夫婦の意見が合致し、退職金という資金的な余裕もあり、色々な条件がそろって、この福祉施設運営を「やりたいこと」として実現できている。しかしながら、「私の人生はこんなことでいいのかな?」と悩み、資金や設備などの様々な都合で挑戦したくても挑戦できていない人もいる。そんな人たちに対して、まずは面倒なことをすべてすっ飛ばして好きなことを実行できる拠点としてあり続けたいのだ。
決済はいらない
申請も手続きもいらない
明日にだって実行できる
「やりたいなら、今すぐてくてく栗生野で叶えましょう」と伝えたい。
てくてく栗生野は多くの人の居場所であってほしいと同時に、私たち夫婦の居場所でもある。ここに来てくださる多くの方の一歩踏み出す機会を応援すると共に、私たちもたくさんの力をいただいていることに心から感謝している。
仕組みとして縦割り行政の受け皿となり、官に町民の「今」をフィードバックする機能を担いながら、心と心が集う場所として利用者の気持ちに寄り添う温かさを持ち合わせていたい。
私の人生を振り返って思う。
大きな成功があったわけではない。役場の人間としてもずっとはみ出し者であった。誰かに自慢できるような人生ではないが、そんな私は今、退職後の「やりたいこと」を見つけた。
夫婦で起業し、踏み出したこの一歩には、少しの自信と確信がある。
子どもから高齢者まで幅広い年齢層が集うこの場所で、今日もひとつでも多くの笑顔が生まれることを願う。
てくてく栗生野
徳島県名西郡神山町下分栗生野65
利用は登録制です。
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このページは、神山町で自分史ウェブサイト制作事業を手掛けるAYAクリエイティブの制作チームにより制作されました。