山田勲自分史

このページを訪れてくださって感謝申し上げます。本ページは岳人の森・主の山田勲の自分史ウェブサイトです。このサイトでは、神山町で歩んできた私の人生を自分史としてまとめました。ぜひ、ページ下部より感想などをお寄せください。


山田勲(やまだいさお)

昭和24年6月9日徳島県神山町上分生まれ。取材当時73歳。

神山町の山奥、上分地区にて四国山岳植物園・岳人の森を運営する。1972年、当時23歳の頃から山を開拓し、50年の歳月をかけて絶滅危惧種などが生息する四国を代表する植物園を創り上げた。現在は、岳人の森のみならず、神山町の神通滝を中心とした神通渓谷一帯を観光地として開発し、ふるさとを守り育てる地域活動に尽力している。


私の人生はずっと挫折の人生やね。岳人の森にお客さんは来なかった。

いつか、いつかここに沢山の人が集うのだと思い続けた50年だった。当初は私以外誰も森づくりが成功するとは思っていなかった。何度か、大災害の影響で岳人の森への道路が崩壊し、2年間の通行止めを経験した。それでも、ふるさとへの思いがぶれることはなく、ただひたすらに植物を植え、石を詰み、植物園を整備した。

風向きが変わったのは37歳でシャクナゲ祭りを企画したとき。マスコミを含む1日1000人を超えるお客様が岳人の森にお越しいただいた。田舎道では信じられないような大渋滞が起きた。そして、当時、電気も通っていなかった岳人の森を見てひとり、またひとりと協力者があらわれ、四国電力に掛け合い、用地交渉を進め、岳人の森に電気が開通した。この50年の中でこのような奇跡と呼べるような出来事を幾度となく経験してきた。

多くの協力者、支援者のおかげで今がある。常に感謝の思いを持ち続けている。そして現在は、人生のラストスパートとして、神通渓谷の観光地としての開発に力を入れている。ふるさと、神山のためにと思いをもって取り組んできた、その軌跡を自分史として語ろうと思う。

生い立ち・家族

神山町中津にて長男として生まれる

私、山田勲は昭和24年6月9日、父 良明、母 勝子の長男として、徳島県神山町上分中津にて生まれた。父は林業で家族を養っており、3人兄弟はいつも野山を駆け回っていた。

幼いころは活発な方だったと思う。近くの川でハエ、ゴリ、ウナギ、アメゴなどの魚をとったり、冬はそり遊びなどをしていた。幼いころから植物に興味を持ち、山林に生えている草木や花の名前をたくさん覚えていた。

小学校は地元の上分小学校に通い、当時は全校生徒は600人いた。近所は子どもだらけでとても賑やかで、山の中だったこともあり、小学校は当時からバス通学だった。

右が長男 山田勲

上分中学校から徳島市の高校に進み、野球部に入部した。しかし、2年生になったころ急性腎炎を患ってしまい、入院することになった。その後激しい運動は控えるように言われ、野球も辞めたが、卒業後には元気になり、社会人の軟式野球で四国大会に出場したこともあった。

振り返れば、先生の期待に反したことが多かった幼少期だったように思う。当時はあまり努力しない少年であった。山で生まれて、長男として父親の仕事を継ぐ。そんな決められた人生で努力する意味を見出せなかったのだ。

その後、徳島県林業試験場(現徳島県林業総合技術センター)で1年間の研修を経て神山町に戻ってきた。それまでは決められたレールの上で、生ぬるい人生を生きてきたが、19歳のころに「このままいつ生まれていつ死んだのかわからないようなそんな人生を歩むのはいやだ!」と考えるようになり、様々な物事に向き合う態度が肯定的に変化していった。

中学生時代の山田勲

卒業後は神山の奥地にある国有林の植林と育林の仕事をしていた。ところが、自然破壊を肌で感じ、仕事に対しての矛盾を心に抱えながら作業していた。ふるさとや自然に対する思いが人一倍強かった私は、原生林が切られていくのを見ながらなんとも言えないモヤモヤした気持ちを抱えていたのである。

22歳のとき、家に決められた人生を歩むのではなく、自分の人生を生きていきたいという思いを父親に告げ、7人が所有している山の一部放置されていた荒地を自己所有へと変更し、その山を植物園にする計画を企てた。当然硬い性格の父親は聞く耳をもってくれず、何度も何度も交渉したものだった。そこで、母の勝子が「子どもがこんなに言っているのだから、言うこときいてやって」と父親を説得してくれた。そして、父が立ち上がり、7人の所有者に交渉し、権利を譲ってもらうことができたのである。土地を所有することができたとき、ここで植物園をつくるのだ、という大きな人生の目標ができて、目の前の世界が広がったような思いだった。このとき父と母が力を貸してくれなければ、現在の岳人の森はなかったであろう。

家族のこと

私が24歳のとき、幸代とお見合い結婚することとなった。私たちの間には2人の男の子に恵まれ、家族とのかけがえのない時間を過ごすこととなった。

■妻 幸代 

妻の幸代は明るくてよく喋る。岳人の森の話や子どもの話、孫の話など話題は尽きない。地域振興についてはだいぶ私とは温度差があるが、森づくりについても手伝いをよくしてくれる。嫌な顔をせず、私の知人・友人を大切にしてくれることに感謝している。

岳人の森の開発をはじめた頃は「このようなことやっても、結果が出るわけがない」と半信半疑だったと思う。ただし、私が情熱を燃やしていることについては、「絶対にやめてくれ」とは言わない。

まだ道路が整備されていないころ、岳人の森へよく一緒に通っていた。未舗装の悪い道で幸代が軽トラの助手席に乗っていたとき、「こんなとこでやってもお父さん、結果も出ん。はよやめたらどうですか」と私が辞めないことを知っていてたびたび声をかけてきた。私が冗談で、「岳人の森はいつまでやってもアカンな、もう辞めようか・・」と言ったら「辞めるつもりもないのに」と笑っていた。妻は一番の理解者である。

いろんなことを言いながら、よくやってくれている。私一人では岳人の森の開発は到底できなかった。観月茶屋もよく手伝ってくれていて息子もとても頼りにしている。

今のお客さんは岳人の森が賑わっているところだけしか見えていないと思うが、ずっと大変なことの連続だった。幸代がいうには、「お父さんでなかったら、これはようしとらん。他のひとだったら、途中で辞めとる」と言う。その通りかもしれない。

多くの人に見送られて結婚式に向かう幸代

■息子たち

昭和49年に長男の公彦が誕生した。

現在は神山町役場にお世話になっており、産業建設課で林道を走り回っている。幼少期は活発でやんちゃ坊主だったが小学校からは怒ったりもせず、温厚な性格だった。現在は隣町に住んでいるが、生家のこともしらない間に草を刈っていたり、愛犬の世話などもよくしていた。しっかりもので、誠実な人柄で人から信頼される男だと思う。孫たちと良い家庭を築いてくれていることをとても嬉しく思う。

昭和52年 次男の充が誕生した。

充は幼少期は黙ってじっくりしている性格であったが、途中から活発な性格に変わっていった。中学校のときから、岳人の森の跡継ぎをすると宣言していた。親の私たちが「あそこで料理を出せたらいいな」という話を覚えてくれていたのだと思う。徳島市内の高校を出てから調理師学校を出て、京都下鴨茶寮というお店で日本料理の修行をした。岳人の森の食堂は充が料理長として戻ってくる前提で建て直したのだ。

充が岳人の森に戻ってきて、安定感が増した。食事ができるというのは観光地にとっては基本中の基本。夫婦で観月茶屋を切り盛りしてくれて助かっている。2022年現在、充の子の高校3年、高校1年、2歳の孫たちと一緒に賑やかに過ごせるのは幸せなことである。

公彦
迷い込んだ子猿の面倒をみる兄弟

■父と母について

父の良明(よしあき)は農林業を営んでいた。先祖代々神山で暮らしており、米と梅を中心とした農家で、木を植林して、手入れして売るという林業も同時に営んでいた。母の勝子(かつこ)とは3歳差の結婚であった。

父は真面目一徹。人に大きな声を出すタイプではなく、温厚だけど、融通が利かない。冗談はほとんど言わず、一直線で硬いタイプだった。農林業もまじめに取り組み、大きな冒険はせず、堅実だった。私と父とはだいぶ考え方が違い、私の行動には何かと意見してくることが多かった。

父は82歳で亡くなったのだが、母の勝子が51歳で若くして亡くなった為、そのあとは、ずっと病気がちだった。医者通いが続いたため、私もずっと送迎の対応をしていた。

医者からは、妻を亡くして独りになったことが精神的なダメージにつながったのではないかと言われた。60代以降は家にずっと座ったり、寝たりといった生活になってしまった。母 勝子の存在が父にとってはとても大きなものであったに違いない。

母の勝子は、妻の幸代と親子ほど似ている。ずっとカラカラ笑っている女性だった。幸代に「あんたなら、山のあとが継げるわー」といっていた。よく喋り、元気に父を支えていた。

7人兄弟の母は幼少期に父親を亡くして母子家庭で育った。あるとき母が子どものころの話を聞いた。母子家庭で家庭を切り盛りしていた私の祖母に欲しいものをねだったが「お金がなくて買えん」といわれたそうだ。神山弁で「どくれる」という言葉は「拗ねる」という意味なのだが、「あのとき母親に欲しい物をねだってどくれたが、あんなことは言うもんじゃなかった」とずっと後悔していた。父のもとへ嫁いできて、我が家は少し豊かだったので、「自分が経験できなかったことを、子どもにしてやりたい」という思いをもって子育てしていたと話していたことを今でもとてもよく覚えている。

病気することもなく元気だったが、51歳のとき脳溢血で急に倒れ、そのまま逝去し、家族は悲しみに暮れた。

母は父親にも岳人の森のことを根気強く説得してくれた、心から尊敬する人である。今でも感謝の気持ちで母のことを思い出す。

岳人の森の挑戦

19歳で故郷へ戻り、神山のために立ち上がる

高校を卒業し、徳島県林業試験場にて1年間の研修を経て神山町上分の故郷に帰ったのは、私が19歳のときであった。長男として稼業を継ぐのは当然と思っていたので、なにも考えずに神山に戻ってきたように思う。それまで決められた人生を生ぬるく生きてきたが、このとき、「このままいつ生まれて死んだかわからんような人生はまっぴらだ!」と強く思うようになり、自分が何をやりたいのか、何を大切にしているのかを模索するようになった。当時の上分には製材所が沢山あり、毎日トラックが動き回って活気にあふれていた。林業に関する仕事がいくらでもあった時代である。私も当然のように父親の林業を手伝いながら、「今後この神山も衰退していってしまうかもしれない。我がふるさと神山町を守り続けるには、今から何か手だてを打たなければならないのではないか」と考え始めた。

雪深い東北や北陸などでそのころはじめて「過疎」という言葉が叫ばれ始めたが、そのころの神山は非常に栄えていたのでまだ”地域を活性化”する、という概念がなかった。地域住民の集まりで、「将来は過疎になるので、活気が出るようなことをしていかないといけない」と訴えても、誰も聞く耳をもたなかった。「20代そこらのもんがたわごと言いよる」という反応だった。

しかし、私の危機感はおさまらず、山田家を含め7人が共同所有する山をの一部を開拓し、植物園にして観光客を呼ぶ構想を思いついたのである。これを実現させるために、父親に山の共同所有者へ所有権を山田家に移してもらうよう交渉してほしいと説得したが、とりあってもらえなかった。何度も何度も、神山のために行動を起こしたいと説得し続けた。そんな私を見かねて、母が父を説得してくれた。そうして、父と所有メンバーの中の一人が熱心に他の人たちに働きかけてくれたおかげで念願の土地が私の物になったのである。

私の危機感は的中し、時代の変化と共に林業の担い手は減り続け、山に入る人もいなくなった。神山はこの50年で過疎化したのである。

林業が衰退したのは、輸入で外材が入ったというのがひとつの理由だが、建築様式が変わって木材を使わなくなったというのも大きいだろう。私が考える、林業衰退の最大の理由は、戦後の復興で必要だった大量の木材が高度成長を遂げる中で必要なくなったことだと思っている。

神山町の衰退を体感し始めたのは昭和50年代だったように感じる。昭和の終わりから平成の時代には林業はじわじわ衰退していった。神山町でも林業を継ぐはずの後継者が次々と町外へ出ていった時代だ。長男が家に残って百姓、林業、漁業をするというのが昔の日本の家の形だったが、私の世代がその文化が残っていた最後の代だと思う。

オープン間もない岳人の森
囲炉裏小屋建築前の造成工事

何もない山から岳人の森を整備

岳人の森は初めは何もないただの山だった。そこに至る県道の舗装もしていない、土の道。水道も電気もなく、木と土と草木が生い茂っていた。木を一本切って、岩をひとつ運ぶところからのスタートだった。神山町出身の岩丸潔さんも、「あんなところでなかなかでけへんわー」と同世代の友人にも驚かれるほどである。ずっとひとりで重機を運転しながら開拓しながらも、自分なりの構想を描いていた。

山の整備を始めた当初は借金の連続だった。商工会には、借金を目的に不純な動機で入会した。商工会の紹介で国民金融公庫で借りる手はずを整えてくれた。さっそく借金の交渉に行ったのだが、「どんなとこでやるんですかー?そんなとこでやっても即開店休業でしょう?」と現地を見ることなく一掃されて悔しい思いをしたことを思い出す。そんな風に資金のめどもつかない状況が続きながら、農協や森林組合、兄弟からも借金をして資金確保に務めた。借金をするときは、私には心に決めた硬い信条がある。それは「ひとつの借金を返済するまでは次の借金はしない」という自分との約束事だ。この信条を貫いたおかげで、なんとか今まで乗り切ってきたのである。

私が29歳の時に母親が亡くなり、それまで母がやっていた、田んぼの仕事などの対応をする必要が出てきたために岳人の森の整備と平行して行っていた林業の仕事で外に働きに出ることができなくなった。このままでは日銭を稼げなくなってしまうため、国有林の仕事を辞め、植木の仕事を始めたのだ。手探りで自然木の植木を開発したのだが、幸運にもそれがよく売れて、岳人の森を開発しながらずっと生活の糧になった。植木の仕事で稼ぎながら、稼ぎを借金返済と岳人の森の開発に充て、完済してはまた次の借金をする、といった具合に資金繰りをしていたのである。

山を開拓する所
友人の岩丸潔さん(右)

岳人の森に電気を通す壮大なプロジェクト

1992年、私が41歳のころの話である。徐々にお客さんが来てくれるようになっていた岳人の森だったが、電気が通っていたわけではなく、電気は発電機に頼っていた。ある日、私のことを気にかけてくれていた鉄骨建築業の東谷忠明さんが、電気工事業を営む中川敦義さんと岳人の森を訪れ、酒を飲んでいた。3人で語り合いながらも発電機がドドドド・・と音を立て、電球が呼吸をするように明るくなったり暗くなったりを繰り返していた。「麓から電気がくればありがたいが・・」と私がつぶやいたところ、少しの沈黙を置いて中川さんが決然と言い放った。「岳人の森の電気を必ずやる!」と。その2人が発起人となって私と共に商工会や役場に呼びかけて、電気の必要性を主張しながら関係者との面会を重ねていった。この思いに賛同する仲間が徐々に増えていき、10名ほどの仲間と共に四国電力へ陳情することになったのである。

発電機が稼働していた小屋

四国電力との話し合いの場でずらっと並ぶ協力者の仲間。そこで一人一人が自己紹介をしながら、「何卒、岳人の森に電気をお願いします」と言葉を添えてくれた。私は感動で心が震えた。最後に四国電力の支店長が「これほど神山の人が熱意をもってやろうとしていることですので、四国電力としては電線を整備する方向に進めます。ただ、問題があるんです。電気はひと様の土地を沢山通ります。誰か一人でも用地交渉に納得しなければ、進まんのです」と言われた。そしたら、当時の町長である井内計義さんが「いや、それは心配ございません。山田さんは地元の人と良い関係を築いているので問題ありません」と断言された。そんなのまだわからないのに・・・とヒヤヒヤしたものである。その後順調に用地交渉が進められ、神山の用地交渉担当の方が「通常はこれほど長い距離を電気をひいたら、どこかで誰かが反対するものだが、岳人の森への経路は誰も反対者がいなかった」と驚かれた。

1992年(平成4年)年も押し迫った12月26日、井内町長、四国電力徳島支店長や協力者20名が岳人の森に集い、点灯記念式が執り行われた。私と他3人が同時にボタンを押すことのできる点灯機は中川さんが作って持ってきてくれたものだった。そこには、「無限の努力をすれば事は成す」と書かれていた。

私が式典にて謝辞を述べながら、ハンカチで涙をぬぐってくれる人がいた。多くの人が笑顔に包まれていた。緊張の中、特注の点灯機のボタンが押下された。

岳人の森に念願の電気が通ったのである。

距離にして実に2.5Km、電柱70本の大工事だった。

電気がきていなかったら、きっと岳人の森はどこかで辞めている。この出来事は岳人の森の発展の大きな転換期となった。電気の開通の嬉しさは言葉には表せない。嬉しさのあまり、電気を全部つけて、山の向こう側へ行って灯りをわざわざ観に行ったほどである。

左から岡田四国電力徳島支店長、井内神山町長、三角商工会会長、勲
中川さん作の点灯機

森づくりを阻む自然災害の脅威

この自分史の取材をしている2022年秋にも、非常に大きな台風に見舞われ、岳人の森は倒木や水道などの大きな被害を受けた。今回の台風では、木が水道の上に覆いかぶさり、土石が流れて水道が2本止まった。誰かが直してくれるわけでもない。私と息子の充とで復旧作業を実施するのである。園内で倒れている木を伐採し、崩れた斜面に手を入れ、被害を直すのに丸2日かかった。

岳人の森への道は山道のため、道路に土砂が流れ出ることがある。2022年9月の台風では2日あれば復旧したが、道路そのものが土砂で流されてしまう場合には、直すには2年間以上通行止めになる。平成16年自宅の裏が崩れて大災害があり、夜中に夫婦で逃げ出した。家のすぐそこまで土砂がきており、倒壊とまではいかないまでも、大きな被害が出た。当時多くの人が見舞いにきてくれたが、「勲さんのことだから、このままでは終わらんわ」と言って励ましてくれた。

道路が2年間も寸断されるような災害のときには、当然岳人の森に一般のお客さんに来てもらうことが難しくなる。裏道を通れば森に到達することも不可能ではないが、客足は遠のいた。岳人の森が営業できないと、その分の収入がなくなってしまうため、このようなときは、山の仕事やゆずの仕事などにアルバイトに行くことがあった。うちが困っているのを見て、声をかけてくれる恩人がいてくれたのは、本当に有難いことである。

経済的な危機感はあったが、岳人の森に対する危機感はなかった。岳人の森を辞めるなんてことは頭の隅にもなかった。執念をもって取り組んでいるからこそ、災害などに負けるわけがない。上分は山が急なので、そもそも災害が起こりやすい地域。だから、災害がある心づもりをもって山づくりに取り組んでいる。

岳人の森は自然を相手にする分、苦難が多い。今来ているお客さんは想像できないかもしれないが、予想に反した失敗や悩みの連続であった。

1974年の神山町上分の山崩れ災害
鹿よけの網が倒木被害に

転換期となった37歳でのシャクナゲ祭り

29歳のときに母親が亡くなり、30代では植木販売の仕事を中心に生計を立てていた。この植木販売の仕事が非常に好調で、周りの人で私を見て学んだ人も順調だった。

ここで得た売上をとにかく岳人の森につぎ込んだ。植木の販売は好調だったものの、借金しながら岳人の森を開発していたため「どうやって払おうか・・どうやって借金を工面しようか・・」と寝汗をかくような日もあった。

20代では、まず道をつくること、園としての基本的なことを行っていたが、30代からは、木を切っては森を少しずつ整備して広げていった。岳人の森開発に取り組んで数年が経っていたが、30代のはじめは、シャクナゲなどの花の咲く木々が中心で、草花はなかった。

シャクナゲも見てもらえる状態ではなかった。40歳までにシャクナゲ祭りをすると決めて、少しずつ、少しずつ植えていったのである。1987年に第一回シャクナゲ祭りを37歳で実施することができたときは、万感の思いだった。

シャクナゲ祭り 地元の移動郵便局が出店
岳人の森のシャクナゲ

祭りはゴールデンウィーク期間中に行われた。これまで丁寧に植えてきたシャクナゲ1000本が見事に咲き誇り、マスコミも大々的に取り上げた。この祭りを企画するにあたり、PRポスターを張り巡らせたわけだが、とくにシャクナゲが咲く寺院として有名だった浄土宗徳円寺がある、佐那河内村内にとりわけたくさん貼っていった。佐那河内でPRすればシャクナゲが好きな人の目に留まるはずだと読んでいたがこれが的中した。

地元の人の協力もあり、縁日なども開かれ、大賑わいとなった。多い日は1000人を越す来場者が訪れ、田舎道で誰も経験したことのない、大渋滞を起こしたのである。この出来事から、神山の人々の岳人の森に対する見方も変化していった。

シャクナゲ祭りでは縁日も賑わった
大渋滞を起こした道路

ひとつのことに10年取り組む。10年ごとに新しい挑戦を重ねていく

種を植えて数か月で収穫できる野菜などとは違い、植物園をつくる仕事は時間がかかる仕事だ。10年辛抱する仕事は他の人も真似しにくい。だからこそ、10年の時間をかけてやる仕事に積極的に挑戦してきた。誰もやらないからこそ、価値が違うのだ。

時間が一番貴重なのだということを考えて常に行動してきた。信じて、信じて10年待つ。その間にブレたりしないのか、と聞かれることもよくあるが、ブレたりはしない。そもそも林業家は気が長いのだ。植えて50年後に木を切るのが仕事。十分辛抱して待つことができなければ、仕事として成り立たない。

こんな話を聞いた。徳島市内に住む人が「最近は木がよく売れるようだから山を買って林業をはじめようかと思う。木って植えたらいつ切れるのだ?」と尋ねたところ、「50年先」との回答に「そんなあほらしいことができるか」って怒ったそうだ。林業の仕事も山の仕事も気が長くなくてはやってられない。

岳人の森を歩きながら、じっと目を閉じてご先祖さんやお世話になった人に心でお礼をいうことがある。私を応援し続けてくれていた、岩丸さんにもとても感謝している。若いころから、「山田勲はどういう人間で、どういう思いをもっているのか」ということを理解してくれていた。そういう存在に私は支えられているのだ。

30代はとにかく整備しては、植物を植えて、また整備して植えてを繰り返した10年間だった。そして、知識がなかったために枯らした植物がいくつもある。植物は綺麗だから、とか好きだからというだけでは育たない。日照、気温、湿度などのすべての要素がうまく揃わないと育たないのだ。それを知らずにやって失敗したことが数限りない。

ゆきしろの池づくり

40代多くの協力者に恵まれ園が充実しはじめた

シャクナゲ祭りを37歳で開催して、皆さんの岳人の森を見る目が変わって、関心を持つ人、応援しようとする人が次々と現れはじめた。少しずつ岳人の森に注目が集まってくる中、前述のとおり、岳人の森に電気をひくプロジェクトが始まった。これが岳人の森の一番の転換期になったといっても過言ではない。

これらの出来事は、岳人の森を整備していく大きな活力になった。今まで私だけが、「岳人の森はなんとかなる」思っていたが、周りの人もそう思うようになってきた。

環境省の準絶滅危惧種に指定され、徳島県の絶滅危惧一類であるヒメシャガなどを広げ始めていった。苗を買ってきては植え、苗を作っている生産者からは、ぜひ岳人の森に植えてほしいと、苗をもらったりもした。生産者は、自分のつくった苗が美しく育っていくことを好んでくれる。生産者にも協力者が現れてきた時代だ。

絶滅危惧種のヒメシャガ

山の仕事は人一倍慎重にやっているので、大きな事故や怪我などはない。ただ1回だけ手首を骨折したことがある。50代後半くらいに、不注意で溝に滑り落ちてしまったのだ。

みんなは私のことを豪快な人で病気も怪我もしない人だと思っている。確かに、若いころは力が強かった。身体は大きくないが、相撲をしていたときに、「山田さんは力が強いから身体痛めることがある」と言われた事があった。そのことを心にとめて、無理はしないように心がけてきた。今は力ではなく、自分の弱さや愚かさを知って、勝負ごとであっても力づくではなく、下準備をして、無理をせずに対応することを心がけている。

山の開拓もそうだ。重機を使った作業には細心の注意をはらう。絶対に自分のほうに木が倒れないように計算して取り組んでいる。人を雇ったときには、力任せに作業する人には注意することがよくある。人は元気でないと何もできない。これを意識していたからこそ、50年たっても元気に自然と向き合っているのである。

重機を操る勲

観月茶屋オープンで岳人の森が黒字化

2008年、私が60代に差し掛かるころ、次男の充が岳人の森の食堂である「観月茶屋」の料理長として就任し、食堂の立て替えを行った。観月茶屋は創作料理店として、昼は名物のすだち鶏天そばなどの田舎そば、夜はコース料理が提供できる。春は森でとれた山菜をふるまい、秋は園内で採れたきのこ料理を提供している。森を整備したときに切った木を森に放っておくことでキノコを天然栽培しているのだ。魚は近くでとれたアメゴなどの天然魚を使用している。私や弟が釣ってきた、周辺の自然が育てた大変美味しくて新鮮な魚だからこそ、お客様にも自信をもって提供できる。お土産に手作りのわらび餅をテイクアウトすることも可能だ。

観月茶屋のオープンをきっかけにさらにお客さんが来るようになったのだ。観光バス、ツアーバスが増えてお客さんの滞在時間がぐっと長くなり、山をより楽しんでもらえる状態になった。マスコミに沢山取り上げてもらうことができ、神山の住民の方々にも足を運んでもらって、売上は順調にあがっていった。

観月茶屋

60代ではじめて岳人の森だけで家族が食べていけるようになった。思い起こせば着手したのは23歳のころ。「時間がかかったね」というのが本音だ。充が帰ってきてから、園の整備が一気に加速した。息子夫婦が食堂や入園の対応をやってくれるから、私が石垣を詰んだり、道をつくったり、ソロキャンプサイトをつくったりできる。息子が帰ってきてから、特にメディアの取材も増え、注目度も高まった。観月茶屋では料理に非常に珍しいとされる「イワタケ」を使うので、テレビ局がイワタケを扱う場合、わざわざ岳人の森へ取材にくる。イワタケは手のひらサイズになるまで100年かかるとされ、断崖絶壁に生えているのをロープを括りつけて人が壁を這いながら採取する幻の食材だ。もちろん、この採取作業は私ではなく、充が命がけで行うのだが。時期によって観月茶屋でも提供している食材なので、ぜひご賞味いただきたい。

全国にその地域だけにしかないという植物がある。

たった1倫のシラネアオイを見るためだけに遠く県外から老夫婦が来園されたことがあった。シラネアオイはその夫婦の思い出の花だったのだ。たった1倫のちいさな花を見た夫婦は「こんな幸せなことはない」とおっしゃっていた。

花は人を幸せにすることがある。野山の花には、人を癒す力があるのだ。

ようやく、私の思い描いていたことが、ひとつ形にできたのではないかと思う。60代にこのような景色がまっているとは、20代のときには想像もつかなかった。長い長い時間をこの山と共に過ごしてきたことを誇りに思う。

観月茶屋を切り盛りするお二人。充(右)
観月茶屋の季節限定メニュー(要予約)

神通渓谷の開発

神通発電所の保存

神山町上分には、大正7年に建設された、古い発電所があった。美しい滝、神通滝の川の水を活用した水力発電所、「神通発電所」である。すでに使われなくなって月日が経ち、送電するための鉄の棟もたくさん残っていた。そこから人体に害のあるPCBが漏れるということで、国の法律で取り壊すことになった。それにあわせて、発電機が収められている建物もすべて取り壊す計画になっていた。

私は、その取り壊しの計画を耳にして大変驚いた。それまでは神通発電所はその役割を終えてから、役場が管理する資料館となっていたが、誰も関心を持たず、誰も立ち寄らない場所となっていた。建物は老朽化していたが、「こんな貴重な財産は残さないかん」と思って、神通発電所の保存活動を行うために立ち上がった。私は地域の集まりがあるごとに神通発電所の保存の意義を発言して歩いた。しかし、誰一人として理解を示してくれる人がいなかった。むしろ、「あれはいらない」と発言するような無関心な人や、特に意見せず聞くだけの人も多かった。

大正7年につくられた神通発電所
水力発電機

神通発電所が神山にできたのは大正7年。大正7年というと、ガス灯から電気に切り替わる時代であった。当時は、東京でもまだ全域には電気が通っておらず、道路の舗装もされていない、馬車道でたどり着くようなこの山奥に発電所が設置されたことはとても珍しいことだった。神通発電所は神通滝から水路を通じて水を引き、山の上から200メートルの落差を利用して水を落とすことで水車を回して発電する仕組みとなっている。当時は木管と呼ばれた木桶の導水管を用いて水を引いたと言われている。木桶のため、腐食することもあったため、それを随時職人が点検・修復しながらこの発電所の機能を守ってきたのである。今となっては大変貴重な神山の重要な資産である。
神通発電所の保存に関心を示す人がいない中、「これは、自分がやるしかない」と思って、様々な場所に出かけては、保存の意義を訴える活動を行っていった。ある日、町の観光に関する会合が開かれ県外からも多くの人が来ていたことがあった。様々な議論のあと、最後に私が手をあげて、神通発電所がいかに貴重な資産であるか、なぜ保存していくべきなのかを熱く語った。そうしたら、会場がどっとどよめき、私の考えに賛同してくださる方があらわれた。こうして少しずつ神通発電所の大切さが伝わっていき、風向きが変わっていった。

発電所内部

最終的に当時の町長がこの神通発電所を残すと決めてくれて、周辺の大きな木を切り、資料館として日の目を見るように対応してくれた。町長がこの歴史財に対する理解がある方で本当によかったと思っている。現在は町役場と公民館がこの施設の管理をしてくれている。人類は地球46億年の歴史の中で培ってきた地球の資源を、あらゆる場所から掘り出し、自然環境を破壊しながらエネルギーを消費している。この事実から目をそらさず、学生の皆さんがエネルギーの歴史と今後を学ぶきっかけとなる場所としてここを訪れてほしいと願っている。

神通渓谷一帯の美しい四季を通じて自然学習の場に

私はこの神通渓谷を、電気の歴史と滝を中心とした渓谷の景観を合わせた自然学習の場にしていきたいと考えている。神山町を深い学びと自然の豊かさを感じられる唯一無二の場所として、活性化するというのが夢なのだ。岳人の森はその序曲に過ぎない。60代以降はこの渓谷一帯を観光地として盛り上げていくことに尽力してきた。

上分が観光地として活性化していくことで、人の交流が生まれ、経済が生まれ、町全体に活力がみなぎってくる。ぽつんと岳人の森だけがあっても面白くない。周辺全体が良くならないと意味がないのだ。

「神山の春は神通渓谷からはじまる」

こういった言葉をイメージして取り組んだのが、発電所の周りに雪割り桜を植える活動だ。早咲きの桜を植え、それが2月末から3月はじめに満開になることによって、春が神通渓谷からはじまり、神山の美しいしだれ桜の満開につながっていく・・・というストーリーを思い描いて300本を植えた。しかし、非常に悔しいことだが、桜の苗が鹿に食べられてしまい、ほぼ桜が全滅してしまう事件が起きた。自然と向き合っていると獣害は避けられない。失敗を重ねながらも挑戦を辞めないことが重要だ。

鹿の被害に合った雪割り桜

秋には、上分中津集落のよく見える位置にポツンと立っているまん丸の形のイチョウが見ごろを迎える。その形が満月のようなので、満月イチョウと名付けて看板を立てた。11月下旬には大変美しく色づく観光名所だ。これも、誰もこのイチョウに注目してこなかった。満月イチョウと名前をつけて看板をひとつ置いただけで、このイチョウを見に人が集まるようになった。「看板たてただけであんななるんやなぁ」と地元の人も驚いていた。今では満月イチョウは成長してきて、電線にイチョウの枝がかかるようになった。多くの人は電線の安全性を維持するためにイチョウを切ってしまうことをイメージするが、私は逆で、「満月イチョウの丸い形が損なわれては観光名所としての価値が損なわれる。電線の方を移動させてほしい」ということを電力会社に依頼した。そして、その意見が採用され、2022年に電線を移動させる工事が行われている。

神通滝は冬になると全体が凍り、氷瀑となる。「氷瀑(ひょうばく)」という言葉は昔は誰も知らなかった。この氷瀑の美しさを知らないなんてもったいないと立ち上がり、氷瀑の見学会を始めた。それまでは冬は誰も立ち寄らない場所だったが、神通氷瀑が注目されはじめて今では多くの人が訪れるようになり、凍った山道を歩いて滝を目指す人も多くなった。冬は寒さのため、キャンプ客を受け入れることができなくなる。しかし、神山の冬には美しく、珍しい氷瀑があるのだから家に閉じこもっていてはもったいない。一年を通じて楽しめる神山の自然の魅力を感じてほしいと思っている。

満月イチョウ
氷瀑の前で友人と

放っておいても人が集まる地域へ

放っておいても賑わう地域をつくるということが、私の目指していることである。労力をかけて人を集めると、どこかで誰かが「こんなのやっとれんわ」となってしまう。活動をチームでやっていると、義務感で活動する人が増えてくるが、そうなると続けていられない。だからこそ、神通渓谷は放っておいても多くの人が来るように設計している。滝に遊歩道ができたら、勝手に人が行く。満月イチョウも色づいたら勝手に人が集まる。

発電所も資料館として整備したら人が来る。そうやって自然と店ができたり、経済活動が起こる。人が集まる場所は、商店が放っておかないのだ。それが自然発生的に起きることを目指している。

神通渓谷は学校の遠足などに訪れる場所にしていきたい。電気の成り立ちやエネルギーについて勉強し、とうとうと落ちる滝を、そして大正時代にできた石造りの取水堰を見て学びを深めていってほしい。

今を生きている人は電気があることは当たり前になっている。だからこそ、電線を通すことがどれだけ大変かについて考えることもない。しかし、この渓谷を訪れることで、当たり前のことがどれだけ当たり前でないのかについて深い学びを得られるのだ。

私自身も、電気はスイッチを押したらつくものだと思っていた。ただ、岳人の森へ電気を通すとなり、実際に電気が通った奇跡を目の当たりにしてはじめて、すべては当たり前でないということに気づいた。

当事者として苦労した者は、簡単に反対や賛成を言わなくなる。何も考えていなければ、誰かが立ち上がれば、すぐに反対とのろしをあげる。知らなければすぐに片方の意見だけを聞いて反対したり、賛成したりするのが人間だ。人間は偏った物の見方をして間違うことがある。冷静に双方の視点を持つことが大事である。

人が言ったからといって流されるのはいけない。自分の頭で考えて自分の意見をしっかりと持つことが大事なのだ。

神通渓谷 取水堰
森を案内する勲

信念

「信念と頑固とは違う」という話をよくする。頑固とは、人の話を聞かずに、自分の意思を通すこと。信念というのはあらゆる意見を吸い上げて、考え抜いて決心すること。私はこのように考えている。

岳人の森や神通渓谷に対する思いは、私の信念であったと確信している。

私の行ってきたものは、正解があるものではなかった。正解がなく、成功するかどうかわからないものを、何十年もやってきた。父と母には「たとえうまくいかなくても、ずっといつか、いつか。と熱いままで終わる人生は幸せだ」と伝えたことがある。ただ漠然と何もしないで生きていくのは、もったいない。

私は自分の思った方向に突き進んできたと思う。いろんな発言や行動がはじめは非常識とされていたが、だんだん常識としてとらえられるようになってきた。「50年前に過疎地対策などの発想をしたことはすごい」ということをよく言われる。焦って今から始めようとしても、時間をかけてきたことにはかなわない。自分の信念を貫く大切さをじみじみと実感している。

シャクナゲに防虫の注射をする勲

若者に伝えたい事

私はあえて、若者に夢をもってほしいと思っている。ただし、軽々しく言っているのではない。私自身が背負ってきて苦しみを経験しているからこそ、過大なリスクを背負えとはいわない。若者の集いなどで簡単に「夢を持ちなさい」と言う人もいるが、私は思いがあって、「夢をもってほしい」と考えている。夢を持つということは、しっかりと現実を踏まえながら、心が熱くなることに熱中することだ。

夢は大きいほどリスクも大きい。着実に夢を追うことができるプランを立ててもらいたいと思っている。私の人生は挫折の連続で、夢を諦めるタイミングはいくらでもあった。「あんなところに人が来るはずないのに」と言われてきた。ただし、夢破れそうになったときでも、将来に実現するかもしれないという希望を見出すことができたら続けられる。心無い言葉に一喜一憂している場合ではない。信念をもって夢を追いかけるのであれば、周りの否定的な声には目もくれず歩めばよいのだ。夢に対して自信や強い信念を持つことができたら、その夢は破れんね。

森を訪れる地元の子どもたち

私は山村後継者は地域を発展させる責務があると考えている。「自分たちだけよければいい」、ということだけではないのだ。自分が幸せだと感じるのであれば、みんながニコニコと活気がある場所にしていくための努力を惜しんではいけないのだ。できる人とできない人がいるから、強制ではない。ただ、ふるさとを思う「思い」は持ってほしいのだ。

私はお金もないのに、一生懸命考えて行動していた。みんなが幸せになれば、嬉しさがこみ上げる。巡り巡って自分にかえってくるのだ。

上分の農協の組合長が「山村社会では自分だけの幸せはない。地域の人が元気になってこそ自分も幸せになれる。ただ、過疎という現象がその気持ちをむしばむことがある。」とおっしゃっていた。後の人が幸せになるように、自分がやったことを残したいと思う。単なるキャンプ場や植物園では不十分だ。絶滅危惧種の植物園を残したい。自然界から消え去るような心配のある植物を残していく。その象徴が県に指定された絶滅危惧種のレンゲショウマだ。西日本の遺伝子をもったレンゲショウマは平成の中ごろに消滅し、岳人の森にしか生息していない、幻の花となった。

幻の花レンゲショウマ

私を含め人はどこかでいなくなってしまう。それでも、私が守り育てたレンゲショウマはこの森で咲き続け、多くの人の心を癒すだろう。

改めて私の人生を振り返ると、多くの協力者、支えてくださった方の顔が浮かぶ。感謝の思いが尽きない。これからは人生のラストスパートとして、神通渓谷を観光地にする夢を実現していこうと思う。


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四国山岳植物園岳人の森キャンプ場

〒771-3422 徳島県名西郡神山町上分中津931
電話: 088-677-1147
※冬期は休業の場合がございます。詳しくは岳人の森へお問い合わせください。

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