ほなけんここでやりよんよ no.002 徳島県神山町の名産品・みやげもの編

このプロジェクトについて

本ページは、徳島県神山町にて自分史制作活動を行うAYAクリエイティブが主導した、町民参加型の自分史冊子・自分史サイト制作プロジェクトの一環として作成されました。
町内には素晴らしいお店や商品があることを町内外に広く周知し、町民の魅力を発信することで、地域経済を盛り上げていくことを意図しています。
本ページに登場する自分史が素敵だなと思う商品はすべて購入が可能です。ぜひ一度お試しください。

神山の名産品おやつ会5/18

ほなけんここでやりよんよ第二弾名産品・みやげもの編の完成を記念して、神山名産品を試食するおやつ会を開催します!冊子掲載の神山のおいしいものを一緒にいただきましょう!

日時:2024年5月18日(土)14:30~15:30
場所:神山バレーサテライトオフィスコンプレックス
徳島県名西郡神山町下分地野49−1
参加費:大人500円 18歳以下無料

編集長・ライティング
松坂 智美

自分史・家族史制作ビジネスを展開している松坂です。東京都出身で、現在は徳島県神山町という創造的過疎の町で起業し、活動しています。
第一弾のほなけんここでやりよんよ美容室・理容室編に引き続き、第二弾のフリーペーパーを制作することができました。
今回の取材を通じて、神山町内のお土産の背景にあるストーリーをたくさん知ることができました。神山町のお土産を誰かに渡す際に、「神山の物語」も一緒にお渡しするひとつのきっかけになれば幸いです。

コンセプト

知っとうで?
徳島県名西郡神山町の
地産品・みやげもん

町に暮らしよる私たちも、遠くから遊びに来てくれよる人も大好きなこの町の美味しい地のもん、みやげもん。
この町にはええもんがようけあるけど、そこには、どんな物語があるんやろか。

町の中を探検して、あちこちの作り手を訪ねてみたよ。
町で見かけるあれやこれやは、こんな素敵な人たちが作りよる。
みんな、いろんな半生を経て、今この町で、作りよる。

作り手の「自分史」を聞かせてもらったもんで、ちょっと一緒にのぞいてみよか。

この町の、あの店の、あの人の物語。
「ほなけんここで、やりよんよ」

取材期間:2023年12月~2024年1月

名産品・みやげもん編の町史

本企画に登場する方々のライフイベントと神山町史をタイムラインにしました。
神山町の時が流れる中に店主一人ひとりの人生が刻まれ、まちの歴史となってゆきます。

神山町の名産品・みやげもんチャート

名産品・みやげもん編の自分史

語り手/神山生活改善グループ 粟飯原 育子さん

1937年生まれ(取材当時87歳)

変わらない神山の味を次の世代へ

第2次世界大戦を経験した幼少期

昭和12年、下分の団体職員の娘として産まれた。小学校低学年のとき、第2次世界大戦が勃発。徳島の大空襲の際には、家の前から真っ赤な空と燃える徳島市内が見えた。神山町は空襲を受けることはなかったため、そこまで不安ではなかったが、疎開してきた同い年の子どももいて、胸が苦しくなったことを覚えている。終戦後、少しずつ落ち着きを取り戻し、まちは林業や農業で栄えていった。その後、下宿して名西高校へ進学し、卒業後は徳島市にある原裁縫技芸女学校で裁縫を学んだ。 

平成元年に生活改善グループが発足 

20歳のときに東京で洋裁の仕事に就くものの、1年で神山へ戻ってきた。22歳で郵便局員であった夫の忠さんと結婚。3人の子どもが誕生し、日々家事と育児に追われる賑やかな毎日を送っていた。

平成元年に神山森林公園で森林植樹祭が開催されることをきっかけに、神山町ならではの商品を作ろうという動きがあり、生活改善グループが発足。「神山そだち」という町の名産品を使ったお菓子が開発された。すだち入りクッキー、よもぎ団子などは35年経った今でも愛される商品で、かまパンや道の駅などで購入できる。 

神山の味を伝承するために 

現在、下分の生活改善グループメンバーは80代が主戦力で、すっかり高齢化してしまった。今まで誇りをもって続けてきたが、人口減少や働き方の変化などの影響で若い人に加入してもらうことが叶わず、〝この味が私たちと共に消えてしまう〞と危機感を抱くようになった。Food HubProject の細井恵子さんとお話したとき、「神山の味を伝承していきたい」と言ってくれたことが頼もしく、そして嬉しく感じた。今ではFood Hub Project に関わってもらいながら、ずっと変わらぬ味を楽しんでもらえるようになったらいいなと考えている。中でも神山で摘んだよもぎで作るお団子と、もろみは続けていってほしい。 

伝統の味を通じて地域の魅力を伝える 

私も今年で88歳。長く続けられる秘訣についてよく尋ねられるが、「好きやけん」の一言に尽きる。一生懸命作業して、友人とお話して、毎日がとても楽しい。最新機器を使わず、昔ながらの方法で製造している工程を見てもらうと驚かれるが、大変なことはない。地域で学び合って、みんなで協力していること自体が喜びだ。

神山塾生や移住者の若い人たちが仲良くしてくれることも刺激になっている。まちを大切に思ってくれる人との繋がりをもたらしてくれるこの活動は、私たちが動けなくなるまで続けていく。これからも多くの人に神山の伝統の味を味わってもらって、この地域の良さを体感してもらえることが、私たちの〝生きがい〞なのだ。

神山生活改善グループ(よもぎ団子)

かまパン&ストア、道の駅 温泉の里神山で販売中
TEL:なし

OPEN:各店舗の営業日時に準ずる
CLOSED:各店舗の営業日時に準ずる

語り手/しいたけ農家 森ノ下農園 阿部 大佑さん

1985年生まれ(取材当時38歳)

家族のために、飾らず今ある日々を続ける

家業のため土木の道に進んだ青春時代

阿川で生まれ、4人兄弟の三男として育った。中学時代までこの地域で過ごしたが、同級生は近所にはいなかった。放課後に遊ぶときは、近所の少し年上の子供たちとサッカーをしたり、山を走り回ったりした。外で遊ぶのが好きな子供時代だった。

その後、神山中学校を卒業し、徳島商業高校への進学を機に神山を出ることになった。市内で下宿していた2歳上の兄と一緒に暮らした。しばらくして兄が高校を卒業し、図らずも1人暮らしになったが、大変というよりも自由で楽しい生活を送っていたと思う。

高校時代はサッカーに打ち込んでいたが、卒業が近づき進路について考えるようになった。自分もなんとなく周りのみんなと同じように就職するものとぼんやり将来をイメージしていたが、「大学に進学してほしい」と両親に説得され、仕方なく専門学校へと進学する。当時は実家が土建屋だったので、大阪の土木・建築の専門学校で学ぶことを決めた。

地元の繋がりの中でしいたけが旅立つ嬉しさ

専門学校卒業後は、神山町に帰ってきて家業の土建屋を25歳くらいまで手伝った。ちょうど神山町での土木の仕事が減ってきた頃、父の「土建屋をやめて椎茸をしようか」との一声で、椎茸農家としての事業がはじまった。父の考えに従い、椎茸栽培も流れに身を任せ従事していたが、5年ほど前から私が中心となって事業を回すようになった。初めは本当に手探りで、いろいろな菌を試してみたり、温度を変えてみたり試行錯誤の連続だった。その中でだんだんとコツを掴み、ここ2、3年でやっと安定して栽培できるようになってきた。どんなに新しいことを始めて失敗しても、なぜか〝どうにかなるわ〞と思えた。目の前にある椎茸に向きあって、毎日を続けるだけだ。

今は、収穫した椎茸のほとんどを農協に卸している。残りは、同級生のお店やかま屋へ提供している。同級生のお店へは、椎茸が注文されていなくてもフラッと持っていくこともある。そういう関係が心地いい。かま屋と一緒に仕事を始めたのは4年前。Food Hub Project の白桃薫さんは一つ上の先輩で、若い地元の事業者ということで、声をかけてもらったのだと思う。地元の繋がりの中で椎茸が旅立っていくことが多く、有難いと感じている。

家族のためだからこそ頑張れる

26才で結婚し、3人の子どもがいる。子どもがいなかったらここまで頑張れなかったと思う。学校が休みの日に子どもが手伝ってくることが嬉しい。今改めて振り返ると、家族を養うために自分の事業として椎茸事業を受け継いだ覚悟が今の自分をつくっている。今も父母と一緒に働きながら、日々おいしい椎茸を育てようと頭を悩ませている。「椎茸に働かされているのかもしれないな」と思えるほど忙しい日々でも、〝丁寧に〞を心がけている。

森ノ下農園

JA夢すだち神山で販売中
TEL:なし

OPEN:各店舗の営業日時に準ずる
CLOSED:各店舗の営業日時に準ずる

語り手/すだち農家 岡本農園 岡本 学さん

1982年生まれ(取材当時41歳)

自分の仕事ぶりは常に見られている。
手は抜かない

大人しく、あまり前には出ない子ども時代

1982年、3代続く下分のすだち農家に生まれた。幼い頃は大人しい性格で、物静かな子どもだった。ちょうど神山町で人口が減少傾向に転じ始めた時代で、今はなき下分小学校に通っていた。神山中学校に進学し、青雲寮での下宿生活を送ることとなった。寮生活は規律が厳しく大変だった。この頃は実家ですだちの収穫作業を手伝うこともあった。作業を手伝うとお小遣いがもらえたものだ。

高校は徳島市内の城南高校に進学。市内の寮での暮らしには慣れるまでに時間がかかったが、新しい友人もできて、楽しい学校生活を送っていた。 大学は四国大学へ進み、バイトやスポーツを楽しむ普通の大学生だった。

大学卒業後、父の紹介もありJA名西郡に就職。転勤や部署移動なども経験しつつ17年間勤務した。 家業を継ぐことを考えるタイミングであったため、里山みらいの後継者育成プログラムに4期生として参加した。

家業のすだち農家を継ぐ 

研修内容は町内の園地実習と、勝浦町にあるアカデミーでの座学と実習だった。今年で2年間の研修期間を終える。岡本農園は父と母が2人で切り盛りしており、家族経営だ。3反(約3千平方メートル)ほどの面積に320本以上のすだちが植わっている。収穫したすだちを冷蔵して出荷している。

2024年4月には研修生を卒業し、経営者となる。ただし経営者ではあるものの、父や母から学ばせてもらう立場であることに変わりはない。 農業は毎年様々な状況に応じて柔軟性を求められる。 単価や、価値、市場での流れ方、実がなるための剪定や摘果摘葉。様々なヒントを組み合わせながらの読みと決断の日々。沢山のピースの中から最適解を組み合わせていく作業にやりがいを感じている。

そして、新しくチャレンジしていることもある。〝阿波すず香〞という柚子とすだちを交配した新品種の栽培だ。まだあまり流通していないが、先代から少しずつ植え始めたものが着実に育ってきている。阿波すず香は香酸柑橘特有の苦みが少なく、果汁が多くて種も少ない。 果皮をマーマレード等の食用として加工することに向いており、神山でも数軒しか栽培していないため、これからが楽しみな品種だ。

自分で動き、自分で考える

今までは研修というフェーズだったからこそ、これからは「自分で考える」ということが大切だと実感している。農家になるからには、責任の所在は常に自分だ。研修制度では、ある程度のお膳立てや協力はあるが、独り立ちの後は自分の仕事ぶりは常に見られている。仕事の手は抜かないことを貫き通したいと思う。先人たちが築き上げてきた「すだちの里神山」というブランドをさらに盛り上げていきたい。

岡本農園

JAなどに出荷、個人への販売も検討中
TEL:088-677-0848

語り手/神山ルビィ 織田 智佳さん

神山の魅力の詰まった紅い宝石で
里山と都市を繋ぐ

天職を見つけた20代 

徳島市出身。高校まで徳島で過ごしたが、ずっと都会に憧れていた。関東の大学に進学し、卒業後は東京の教育系出版社で教具開発に携わる仕事に就いた。がむしゃらに働いた20代だったが、本当に天職だと思っていた。東京での暮らしは、とても楽しく充実していたと思う。 

30歳を目の前に、さらに広い世界を見てみたいと思うようになった。自分の経験を活かした挑戦をしてみようと、退職をしてJICA海外協力隊に応募した。派遣先は、南米のボリビア。地球の反対側には、家族や自然や地域の繫がりを大事にする〝アミーゴ文化〞が根付いていた。ここでの生活が私の価値観を大きく変えてくれた。

神山ルビィとの出逢い 

ボリビアでの経験を通して、豊かな自然と人との繋がりがある所で子育てをしたいと思うようになり、徳島にUターンした。地域おこし協力隊であればアミーゴ文化にのっとった活動ができるかなと、神山町での募集を見つけ応募。これが神山ルビィとの出合いになる。活動先の「NPO法人里山みらい」では、協力隊の仲間たちと、神山のすっぱい梅干しを「神山ルビィ」と名付けて、その価値を町外に発信することに取り組んだ。10軒ほどの梅農家さんを訪ね、梅干し作りを見せてもらったり、美味しく作るコツを教わった。その誰もが、私たちを歓迎し、受け入れてくれる。梅干しは私と多くの町の人を繋げてくれた。

梅干し文化を届ける 

協力隊の任期が終わろうとしていた頃、NPOとしても梅を取り扱うのをやめることが決まった。事業と一緒に農家さんとの関係もなくなってしまうのが勿体無くて、「だったら私がやろう」と思い立ち、神山ルビィのバトンを受け取ることになった。農家さんの梅干しの販売はもちろん、教わった匠たちの技を継承し、できるだけ農薬や化学肥料に頼らずに栽培した梅で梅干しを作ろうと試行錯誤を続けている。自分の漬ける梅干しには、町のキャンプ場「コットンフィールド」を営む森さんが栽培する梅を使わせてもらっている。梅の収穫から手伝い、森さんの協力のもと親子で園地の梅を収穫する体験イベントなども開催したり、青梅が実る季節はとても忙しいが、神山ルビィを通じて、町の中と外を繋ぐことがとても楽しい。

今年で神山町に来て10年を迎え、神山ルビィも誕生からちょうど10年。夏の土用干しでは一粒一粒に太陽の陽射しをあてて、ひっくり返してヘタをとったり、自分一人ではたくさんは作れない。協力先の梅農家さんも「自分の代まで」と廃業を决め、数が減っているのが現状だ。今では、〝神山町の梅農家さんを支えて、梅産業を盛り上げる〞という当初の役目も変わってきているのではないかと感じている。でも、これからも、自分のペースでしわしわと続けていきたい。これからどうしようか。きっとまた梅が繋いでくれるのかなと思う。

神山ルビィ

下記サイト、道の駅 温泉の里神山、こんまい屋、moja house、阿波十郎兵衛屋敷などで販売中

WEB:https://kamiyamaruby.stores.jp/

語り手/阿津満屋製菓 坂東 義幸さん

1962年生まれ(取材当時61歳)

今までと変わらない味を、今日もここで作る

山や川を駆け回った幼少期

1962年、坂東家の次男として阿野に生まれた。阿津満屋は明治時代から約130年続く製菓店で、私は4代目だ。子どもの頃は山をまるごと使った鬼ごっこをしたり、雪がない土の上でそり滑りをしたり、川で魚獲りをして毎日を過ごした。

高校へは自転車で片道1時間かけて通い、さらに山岳部で山を駆ける毎日だった。登山競技の県大会で2位をとったこともある。春の忙しい時期には、生地を練ったり、蒸したり、ういろ作りの手伝いをした。体力だけが自慢だったが、1度だけ風邪をひき、卒業式の前の日に皆勤賞を逃して悔しい思いをしたのも今となっては良い思い出だ。

高校卒業後、北島町にある「矢野朝日堂」へ修行に通い、本格的に和菓子やパンの作り方を学んだ。そして平成元年、神山森林公園ができる際、いよいよ阿津満屋が忙しくなるということで修行を終え、店に立つことになった。この阿津満屋のレシピと技術は一子相伝であり、先代を見て覚えながら必死で身につけた。

こだわりの道具で毎日ういろを作る

職人に特注で頼んだ一尺一寸のせいろ、頭が半分にすり減ったヘラ、独特の食感のういろをスッと切れる糸。全て大事な道具だ。そして、ういろを包む木の包み紙にもこだわっている。木の良い香りがほのかにして、風味をさらにを引き立たせる。

店を継いでから数年前までは両親が店を切り盛りしていたこともあり、ほぼ休みなく店を開けていたが、最近は月に2〜3日休業日を設けている。5月から10月頃は、夜中2時頃に起きて仕込みを始め、7時の開店と同時にできたてのういろを並べる。特に春は桜の見物客で賑わうため、1日に何回も製造する日が続くのだ。

お客さん、地元に愛される味をこれからも 

代々受け継いできたこの味と独特の食感は古くから親しまれている。砂糖、こしあん、小麦粉、食塩だけで作り、添加物は入れないので、小さい子どもからお年寄りまで安心して食べていただける。最近ではお遍路さんやSNSを見た県外の方、海外の方がお店を訪れ、喜んでもらえていることが励みだ。

今は材料費が高騰しているが、気軽に買える値段を維持し続けたい。他の場所で売らないのかと尋ねられることもあるが、一番美味しい状態でお客さんに食べてもらいたいのでこの店でやっていこうと思う。

「好きなことをやりなさい」と言って育てた2人の子どもたちが、パティシエや教師として、自分の道で活躍してくれることがとても嬉しく、心から応援している。

子供の頃から穏やかに変わりゆく景色、遠くからやってくるお客さんを店先から眺めながら、今日も私はういろを作る。

阿津満屋製菓

〒771-3201
神山町阿野南行者野10
TEL:088-678-0857

OPEN:毎日7時-19時
CLOSED:不定休(電話でお問い合わせください)

語り手/宮本製菓 宮本 充幸さん

1972年生まれ(取材当時52歳)

100年の伝統を活かしつつ新しいコトを

100年続く神山の製菓屋に生まれる

神領西野間にて製菓屋の息子として生まれた。子供時代は、川で魚釣りやモリ突きを楽しんだり、家業の宮本製菓がある寄井商店街に集まったりしながら、活発な毎日を送っていた。中学生になると野球や陸上に打ち込み、青春時代を謳歌。徳島東工業高校へ進学し、徳島市内で初めての一人暮らしを体験した。友人や仲間との大切な時間を過ごし、その町での生活を楽しんでいた。神山町に戻ることも特に計画していておらず、成人するまでは、家業を継ぐとは夢にも思っていなかった。

12年間、菓子職人を経験

20歳の頃、製菓の道に進むことを決意。小松島市のケーキ屋で洋菓子の職人として6年間の下積みを経験し、さらに、6年ほど徳島市の和菓子処「福屋」で和菓子作りを学んだ。やがて、30代に入った頃、家業を継ぐことを意識し始めた。人口減少する過疎の町に戻ることに迷いもあったが、結婚を機に神山町に戻り、宮本製菓を受け継ぐことを決意した。

 宮本製菓は、大正2年創業の100年以上続く製菓屋だ。キャンディ屋として創業し、羊羹やパン、ういろなどの製造販売を手がけてきた。地元の給食づくりに関わっていたこともある。祖父の時代から始めた雨乞の瀧羊羹や、神山の伝統製菓のういろはずっと人気がある。お客さんの7割は地元の人で、手土産を買いに来る人もいれば、結婚式の引き出物や弔事用に詰め合わせを頼んでくれる方も多い。インターネットなどを見て来てくれる県外のお客さんや、道の駅での商品の販売も増えている。

自分のペースで自分の好きなことをする

職人としての1日は、朝7時半から始まる。お菓子のバリエーションが多く、1日の作業内容は日に日に異なる。終日、製餡をする日もあれば、注文のケーキ作りを行う日もある。休憩は取らずに、一気に仕上げるスタイルを貫いている。週に1日しか休みがないけれど、ワークライフバランスを大切にし、趣味である仲間たちとの船釣りの時間も大切にしている。

無理せず、新しいコトを

伝統的な和菓子作りの他にも、洋菓子作りにも取り組んでいる。特に、イチゴをふんだんに使用した人気のホールケーキは、品質にこだわり、自ら市場へ足を運んで素材を選んでいる。また、和洋折衷菓子も大切にし、季節ごとに様々な表情を見せる里山の魅力をお菓子で表現している。例えば、お正月飾りを模して作る花びら餅は、玄関に飾るしめ縄飾りをモチーフにして作る。

シャインマスカット大福をはじめとした四季ごとのフルーツ大福など、新しいアイデアも温めている。新しいことも始めないといけない。けれども、無理はせずにぼちぼちとやっていく。

宮本製菓

〒771-3311
徳島県名西郡神山町神領西野間29-1
TEL:088-676-0508

OPEN:8時-18時
CLOSED:火曜日

語り手/Food Hub Project 加工部門 山田 友美さん

1985年生まれ(取材当時38歳)

神山の知らない素材に挑戦し続けたい

食べることと作ることが好きだった幼少期 

1985年、香川県の観音寺市で生まれた。食べることがとにかく大好きで、母親に「食べとけばいける」と思われるほどだった。手を動かすのも好きで、ビーズでアクセサリーを作ったり、裁縫もしていた。一番夢中になったのが、お菓子作りだった。母方の祖父がかまぼこ職人で、小学生の時、出来立ての温かいかまぼこを食べ、〝作り手しか知ることができない味〞を知ったことが私の原点だったと思う。

自分と向き合う 

中学・高校で様々なことを経験した中でも、食べることと作ることが好きな気持ちがブレなかったため、専門学校に行こうと思っていたが、教師からの言葉に流されるまま大学へ進学。食品関係の会社を対象に就職活動をしていたが、この選択に少しだけ違和感を感じていた。ゼミで教授から「自分と向き合いなさい」と言われたことをきっかけに、今までのように流されるのではなく、自分が作ったものを直接届けられる仕事がしたいという思いに気づいた。

大学卒業後は、京都のケーキ屋や大阪のパン屋で働いた。自分が作ったものを届けられる喜び。イメージとは違う重労働に苦しみながらも、ずっと好きだったことができて嬉しかった。しかし、都会の喧騒に疲れ、香川に戻ることとなった。

SNSでFood Hub Project と出逢う

Food Hub Project 共同代表の眞鍋太一さんのSNSで、神山町でお店を開くことを知った。募集していたのはパン製造責任者だったため、一度諦めた。動きを追っていると、2回目のパン製造者の募集がかかった。短期雇用も可能だったため「3ヶ月の雇用が終わったら地元に帰りたい」と伝えて働くことになった。

素材と向き合う楽しさ

働き始めて1ヶ月が経った頃、「これは3ヶ月じゃ足りない」と思った。同僚たちと働くのが楽しかったこともあるが、それ以上に神山町の〝環境〞が自分にとって良かったのだ。大阪で働いていた頃は、野菜をメインに扱うパン屋にも関わらず、農家とのコミュニケーションはFAX中心で関わる機会がなかった。神山町では、自社で農業をやっていることもあり、朝採れのヤングコーンを食べることができたり、農家さんと直接コミュニケーションをとって、野菜のことを知ることができる。そこから7年間、この町で素材と自分と向き合い続けてきた。パン製造から加工品部門へと移り、「ジャムにするのはどの時期のすだちがいいのか?」などと年間を通して農家さんと相談し合った。素材に向き合うことにより一層ひたむきになれたし、素材が好きになっていった。

去年初めて神山町で胡桃がとれることを知り、まだ使ったことがない素材がたくさんあることに心が躍る。これからも神山の素材を試し続けたい。

Food Hub Project かまパン&ストア

〒771-3311
徳島県名西郡神山町神領字北190-1
TEL:088-676-1077

OPEN:9時-18時
CLOSE:月曜日・火曜日(祝日の場合、営業)

語り手/てて茶 吉澤 奈津美さん

1987年生まれ(取材当時36歳)

お茶は、出会いと幸せを繋ぐ
一つのかたち

熊本県の田舎町で伸び伸びと育つ 

熊本県菊池市に生まれ、田園風景に囲まれて育った。 幼児期から習字や水泳などを習い、高校はバスを2本乗り継いで熊本市内まで通った。書道部で有名な書家の先生と出会ったことをきっかけに、古き良きものへの憧れが芽生え、書道を専攻し、京都橘大学へ進学した。

バリスタの世界に飛び込み、イタリアへ 

大学時代にはカフェでバリスタのバイトを始め、2年間の経験を積み、芦屋のイタリアンレストランに就職。5年弱の修行の末、イタリアへ渡った。1か月のホームステイ後、現地のレストランで働くものの、お金のために働くことに違和感を覚え、人や風景に触れる時間を最優先する生活を送った。フィレンツェを中心に、様々な田舎のワイナリーや農家を訪れた。長めの昼休憩〝シエスタ〞の時間を大切にし、家族との食事を楽しむ田舎の暮らしには

幸せが満ちているように感じられた。

面白そうな田舎を探して、神山へ

2016年に帰国。〝面白そうな田舎〞を求めてWEEK神山に出会い、就職。宿泊事業の創生期を担ってきた。

宿泊事業は午後からの仕事だったこともあり、午前中にイタリアスタイルのカフェをしようと考え、エスプレッソマシンを購入して朝カフェを始めた。 朝カフェ時間の出会いは刺激的で楽しく、半年後にカフェを本業にするためWEEK神山を卒業した。朝カフェの常連客だった、吉澤公輔さんが看板作りなどを手掛けてくれ、その後、2018年に結婚することとなった。 

神山の茶畑と出逢う

2019年、神山のものを使って何かできることはないかと思いを巡らせていた時、友人から神山のお茶畑の紹介を受けた。茶畑を訪れると、その美しい風景に心惹かれた。緑茶、紅茶、抹茶、白茶など、様々な製法や加工方法を試しながら、自分たちにとって丁度良い飲み方を模索し、現在は阿波晩茶と和紅茶を中心に製造している。和紅茶は5月に新芽を手摘みして、一晩熟成、手もみ、発酵、炒りで火入れを行う。晩茶は夏の暑い時期に硬い葉っぱを収穫、一度茹でて揉み、樽に重しをかけてゆで汁で浸して発酵し、天日干しする。これらの工程一つひとつを大切にしている。

幸せを手から手へ届けられたら

手掛ける「てて茶」の名前の由来はイタリア語のの「Te」(あなた)と「Tè」(お茶)と

「手」。飲む人を思い、手摘み、手揉みし、文字通り、時間をかけた手作りだ。書道の経験を活かして、デザインも手作り。自分たちの楽しめる範囲で続けられるよう、 町に来てくれた人たちが手に取ってくれるくらいがちょうどよいと思っている。 流れに身を任せながら、自分の心の声に従い、好きなことを好きなようにやる。それはとても豊かなことだから。てて茶を通じて手から手へと幸せを届けられるきっかけをつくれたら、これほど嬉しいことはない。

てて茶

道の駅 温泉の里神山で販売中
TEL:なし

OPEN:各店舗の営業日時に準ずる
CLOSED:各店舗の営業日時に準ずる

編集後記~私たちが作ったんじょ!~

ライティング 安達 優香

今回、「この梅は遠くへ旅するものだから」という織田さんの言葉が印象的でした。
全ての作り手が込めた想いは、きっとモノと一緒にどこまでも届くし、時を超えて残っていくんだろうなと思います。
そういうふうにこの冊子も誰かのもとに運ばれ、作り手の想いと共に届いていたら嬉しいなと思います。

ライティング 佐々木 敬太

神山町に住み始めて5年。
今回の取材で新たな出会いや発見もあり、改めて神山の魅力は人の魅力であると気づかされました。
一人一人のモノづくりの向こう側にある想いや物語に触れることで、より神山に踏み込めた気がします。この町に住む全ての人が物語の主人公です。
自分史フリーペーパーがより多くの方に届き、それぞれの方の物語を楽しんで頂けたらと思います。

ライティング 松井 ひな子

「神山のことをもっと知りたい。」そう思ってこの企画に参加しました。
今回の取材やライティングを通して、たくさんの方々の温かさに触れ、一つ一つの出会いが、とても幸せでした。
一人一人の心の温かさが、フリーペーパーから皆さんに届き、そのモノへとつながりますように。

写真撮影・クリエイティブ 横手 雅史

今回は神山の美しい梅林、すだち畑、天井が見えない程湯気の上がる工房等で技や味、家族を守り、新しい事にも挑戦するそれぞれの舞台裏を聞かせていただきました。それからは、なんとなく手にしていたものが誰かの人生、情熱の結晶だと改めて考えるようになりました。
この冊子が神山の地産品、作り手がより多くの方、地元に愛される小さなお手伝いとなれば幸いです。

誌面デザイン・クリエイティブ 西海 千尋

家族の歴史や町の伝統、様々なバックボーンを持った神山の商店や商品。そこに込められている想い。お店にお買い物に伺うだけでは知ることのできない、店主さん・作り手さんのお人柄を知ることができました。
お土産を届ける時には、「こんなお店で、こんな人が作っとるそうなんよ」とお話しできたらなと思います。
皆さんのお土産の選びのヒントが見つかるとうれしいです。

WEBデザイン 佐々木 友梨

結婚を機に主人の実家のある神山町に移住してきました。
神山の皆さんの自分史を読み、素敵な人がたくさん集まる文化が根付いているなと実感しながら、前号に引き続きWebページ制作に携わらせて頂きました。
今回の企画でも、神山町の皆さんの大切な想いが、たくさんの人に届くことを願っています。

神山町の他の自分史を読む

神山町観光の立役者 岳人の森 山田勲自分史
元神山町役場職員 てくてく栗生野 粟飯原一自分史
神山町のお父さん グリーンバレー理事 岩丸潔自分史
神山町たこ焼き屋 たこびん 河野敏自分史

このページは、神山町で自分史ウェブサイト制作事業を手掛けるAYAクリエイティブの制作チームにより制作されました。

感想・お問い合わせはこちら

ご覧になった作品名を記載のうえ、フォームよりご連絡ください。