このプロジェクトについて
本ページは、徳島県神山町にて自分史制作活動を行うAYAクリエイティブが主導した、町民参加型の自分史冊子・自分史サイト制作プロジェクトの一環として作成されました。
町内には素晴らしいお店があることを町内外に広く周知し、町民の魅力を発信することで、地域経済を盛り上げていくことを意図しています。
ぜひ本ページに登場する自分史が素敵だなと思う店主さんのお店にご訪問ください。
編集長・ライティング
松坂 智美
自分史・家族史制作ビジネスを展開している松坂です。東京都出身で、現在は徳島県神山町という創造的過疎の町で起業し、活動しています。
神山町で多くのプロジェクトを手掛けられている隅田 徹さんに、「神山町で自分史を盛り上げたいんです。どうしたらいいですかねぇ」と相談したところからこの企画が持ち上がりました。「せっかくやるなら、町民たちとやりたい!」と仲間を集め、結果的に取材を通じて神山町で商売をする意味を沢山教えていただき、とても心温まるプロジェクトとなりました。今後も神山町の魅力を発信し続けていきます!
【2024年1月27日開催】
ほなけんここでやりよんよ冊子完成記念トークイベント&ヘアショー
2024年1月27日、神山町民自分史冊子「ほなけんここでやりよんよ 美容室・理容室編」が完成したことを記念して開催された完成披露イベントに、総勢50名以上の方にご来場いただきました。
そのイベントの様子が分かる写真を一部、ご紹介いたします。ぜひご覧ください。
コンセプト
徳島県名西郡神山町
この町の、あの店の、あの人の物語。
「ほなけんここで、やりよんよ」
20年以上続いとる地方創生活動やら、新しい学校の開校やら、いろんなことで注目されることも多いこの町。ようけの人らが言うてるのは、「まちの人らがええ」ってこと。
この町には、どんな人がおるんえ?みんなどんな人生、送りよったんやろか?神山の人は、どしてええと言われとるん?
この町で商売しとる人らを取材して、どんな人がお店やりよんか。どないして、ここで商売続けよるんか。尋ねてみたもんで、「自分史」にして伝えてみるわな。
この町の、あの店の、あの人の物語。
「ほなけんここで、やりよんよ」
取材期間:2023年9月~11月
美容室・理容室編の町史
本企画に登場する店主さんのライフイベントと神山町史をタイムラインにしました。
神山町の時が流れる中に店主一人ひとりの人生が刻まれ、まちの歴史となってゆきます。
美容室・理容室編のここでやりよんよ!MAP
美容室・理容室編の自分史
語り手/竹野敏江さん
ラッキー理容室 店主
1940年生まれ(取材当時83歳)
手足が動かなくなるまで、お店を続ける
15歳で大阪の理容学校へ
神山町上分で5人兄弟の2番目として生まれた。中学を卒業した後は高等学校へ行きたかったのだが、兄弟も多いため親が許してくれず、言われるがまま大阪の理容学校へ行かされた。理容学校への進学は本意ではなかったが、当時はそれ以外の選択肢がなかったのである。昼間は働いて、夜は学校で学ぶといういわゆる苦学というものである。
当時は親に逆らえなかった
理容学校卒業後は大阪に残りたかったのだが、「知りあいの居ない土地に一人では危ない」と、父に連れ戻される。この場所で元々理容室を営んでいた方が年を取って辞めることになり、「ここでやりませんか?」という話になった。当時は22歳。自分一人でお店をやるのは自信もなくて嫌だったのだが、当時は親に逆らうことが出来なかった。今思うと、子どもをそばに置いておきたかったのだと思う。そして1961年の12月に開業。元々あった洗面台や椅子は古びていて買い替えなければならず、最初は借金ばかりであった。借金を背負ってのスタートに、当時はとにかくがむしゃらに働くしか選択肢はなかった。
ご飯を食べる間もないくらい 忙しい日々
店をきりもりしながら、毎日一生懸命に働いていたころ、役場に勤めていた夫と出会い、結婚。子宝に恵まれる。朝5時に起きて、家族のご飯を作り、仕事が始まる。昔は予約制でないため、お客さんがずらーっと並んでいる時はとにかくさばかないといけない。お昼を食べる間もないくらい忙しい日々。とにかく休みなく働いて、夜12時までお店にいることもあった。若い頃はお金がなかったので、店が繁盛していることは有難かった。子どもは2人居るが、私がしんどい思いをして働いているのを見ているので、継ぐ人はいない。
定年退職なし
神山町で60年以上やっているとお客さんの気性も分かってくるので、その人一人一人に合わせた対応を心がけている。こうやってお店を開けていたら、お客さんだけでなく、知りあいが通って「元気にしよるで?」「まぁ一服しいだ」と言ってお喋りが始まる。お客さんに「わしが生きとる間はしてくれよ」と言われるし、この間風邪を引いてお店を閉めていたら「治ったで?」と連絡が来て、待ってる人がいるのならやっぱり頑張らなきゃいかんなぁとつくづく思った。それにこんだけ喋る人間が店閉めたらどうなるか。自分のためにも定年退職はなし。手と足が動かなくなるまでは続けようと思う。お店を開けたらお客さんが来てくれる、これが何よりの喜びなのだ。
ラッキー理容室
〒771-3311
徳島県名西郡神山町神領字北166-1
TEL:なし (直接お店へご訪問ください)
OPEN:8時30分-17時
CLOSED:月曜日、火曜日(第2・第3)
語り手/阿部 充子さん
阿部理髪店 店主
1942年生まれ(取材当時81歳)
気心の知れた人が集う憩いの場を作りたい
親戚の勧めで入った理容の道
神山町下分の農家に8人兄弟の5番目として生まれた。充子という名前から、「みこちゃん」と呼ばれ、親しまれていた。中学を卒業する頃、滋賀県で床屋を営んでいた親戚のおじさんから修業に来るよう勧められ、住み込みで働くこととなった。家族と離れ、見知らぬ土地で修業を続ける日々。夕方がくるとふるさとを思い、毎日泣き続け、1年ほどで逃げるように神山町に戻ってきた。
もう、理髪店の修業はしたくないと思っていたが、せっかく修業に出ていたのにもったいないと、姉から諭され、姉の理髪店で働きながら、理容師の資格を取得するため、学校に通った。
結婚し、夫婦で理髪店を営む
理容の大会で2回の優勝経験があった夫の三郎は、大阪で指名の絶えない理容師として働いていたが、体を壊して神山町に戻り、貸店舗で営業を始めていた。その夫から見初められ、21歳で結婚。お金が無かったため、新婚旅行には行かず、売り上げの一部を「日掛け」や「月掛け」でコツコツ貯めた。子育てをしながら夫婦でがむしゃらに働き13年、借金をすること無く、現在の店舗がある土地と建物を購入することができた。
夫の死
夫が52歳の時、肺がんを宣告された。余命は3ヶ月。病状を伝えられていなかった夫は、自分が退院するまでの間、常連客を繋ぎ止めておくために、顧客それぞれの髪質や好みのスタイルなどの情報を事細かく指示し、その内容を大学ノートにビッシリ書き記した。夫に事実を伝えず、お店を営業しながら病院に通う日々は辛かった。夫の死後、1週間でお店を再開。悲しみに暮れる暇など無かった。
夫から引き継いだ阿部理髪店を、続けてきた今
夫の技術にお客さんがついていたため、1人でお店を切り盛りし始めた当初は苦労した。切りすぎてはいけないと控えめに切っていたら、「お父さんはもっと切っとったよ。伸びるんやから、気にせんと切りな!」とお客さんに叱咤激励されることもあった。
一生懸命働いてきたおかげで、自分にもご褒美をあげることができるようになった。お休みの日は、日舞に、カラオケに、旅行にと充実した日々を送っている。夫が自分で研ぎながら使っていたハサミを今も大切に使い、お店に立ち続けている。
将来の夢
あと2〜3年したら、阿部理髪店を憩いの場にしたい。気の合う仲間が集ってお茶を飲みながら談笑して楽しむような場所にしたいと考えている。
阿部理髪店
〒771-3421
徳島県名西郡神山町下分字今井133-12
TEL:088-677-1268
OPEN:8時30分-17時
CLOSED:月曜日、火曜日(第2・第3)
語り手/橘 薫さん
たちばな理容 店主
1949年生まれ(取材当時74歳)
いつまでも自分らしく生きていたいから、
私は理容師になった
生まれ育った神山町で趣味と仕事を両立する暮らし
1949年、神山町・広野橘谷で生まれ、鮎喰川を見下ろすこの場所で中学時代までを過ごした。子供の頃から釣りが好きだった。理容師になったら、自由な時間がもてる。今でも釣りが好きで、自由な時間があったら川で釣りをしたり、趣味を楽しんでいる。
店内には、自由な時間があればいつでも目の前の川に釣りに出られるよう、釣り竿をお客さんの席の隣に並べて立てかけてある。鏡の横には、水石を。色とりどりの石が川を流れるうちにさまざまな形を作る。自分で削ってピッタリそれぞれに合うように作った木の台座に収めて、〝猿や人間の顔に見える石〞〝滝にみえる石〞など、数ある石の中から特にお気に入りのものをコレクションしている。
夢のため、コツコツと修行を積み重ねた20代
趣味の時間を大事にしたいと考えて、自分で時間をコントロールできる理容師を目指すことにした。中学校卒業後は、徳島市内の理容専門学校へ進み、お昼の時間は学校で勉強、夕方からは徳島駅前にあった理容室で修行をこなした。
修行時代は、お店に来る人にモデルを頼んでカットの腕を磨いたり、学校の仲間同士で髪をセットし合ったり、地道に訓練を積み重ねた。かっこいい髪型にしたら、皆喜んでくれた。
3年の修行期間を終えて、「職人」として京都へ飛び込んだ。さらに3年、理容師として京都で腕を磨き、23歳の年、長男だったこともあり親のそばで生活をするため否応なく神山町へ帰って来ることになる。帰郷後4年ほどは、独立の夢を持ちながら、資金を貯めるため、今の家の川向にお店を借りてお店をもち、まちの人たちの髪を日々扱ってきた。
ハサミ1本でコツコツと作った資金を元手に、鴨島町に念願だった自分の店をオープンさせる。20年間鴨島での生活を続けたが、親の介護のため店を神山の実家の隣に移すことにした。それ以来、鴨島の自宅とを行き来する毎日に。
理容師として、お客さんとともに歳を重ねる喜びがある
ある日の朝、いつもと同じように出勤し実家に顔を出すと母親がいなくなっていた。探し回ったところ、裏の畑で倒れているのを発見。心筋梗塞が原因だった。その時どんなふうに感じていたかはっきりと覚えてはいないが、その出来事を機に、鴨島の自宅も手放して、完全に神山に生活をうつすことに決めた。
町内に店を移してからも、お客さんは鴨島町にいた頃の顔馴染み。20代当時、高校生だったお客さんが今でもこのまちまで通ってくれている。常連客の口伝に、腕を見込んでここに来てくれるお客さんも増えた。人が人を呼び、今でもここで理容師を続けながら、趣味も楽しんでいる。
たちばな理容
〒771-3201
徳島県名西郡神山町阿野橘谷50
TEL:088-678-0033
OPEN:要問い合わせ
CLOSED:要問い合わせ
語り手/山田 実恵子さん
山田理容店 店主
1949年生まれ(取材当時74歳)
感謝の心を忘れず、
できることをひたむきに続けたい
父の言いつけを守って目指した理容師
上分・川又で生まれ、山田家の長女だったため、幼い頃から父に山田理容店の後を継ぐように言いつけられてきた。
中学卒業後は、父の言いつけ通り理容師の道へ進むことを選択した。専門学校での勉強と丁稚奉公のため、荷物一式を担いで、見送りの父と祖母と3人で小松島からフェリーに揺られ、京都へ向かった。人でいっぱいの船室は、今でも忘れられない独特なオイルの匂いが充満していた。道中の辛かったこと、苦しかったこと。顔も上げず、肩をすくめてずっと泣いていた。ふるさとの徳島を離れるのが嫌だったことを、今でも鮮明に覚えている。
辛い修行時代も神山町を想い、乗り越えられた
京都での修行時代はとても苦しかった。神山町とは全く違う環境の中、15歳で単身親元を離れ、住み込みの慣れない仕事に苦戦続きだった。床掃除など理容以外の下積みの仕事を中心に、挨拶も厳しく教え込まれた。当時1か月の給料は約2500円程だった。隣に住むデパート勤めのお姉さんを見ては、私もいつかあんな素敵な女性になれるのだろうかと夢を見たものだ。
稼いだ小遣いを握りしめ、デパートのショーウィンドウを覗くと、高価な洋服やアクセサリーが並んでいた。「来月はもっとお金を貯めて手に入れたい」と呟いて、修行に明け暮れる日々。時々実家から届く、少し傷んだ果物を口に運びながら、遠くのふるさとを思って涙を流したこともある。ただただ辛い思いばかりだったが、神山に帰るんだと歯を食いしばって修行に打ち込んだ。
7年間の修業時代は長く感じたが、一生物の技術を身につけられたことで、山田理容店の2代目店主として今でもこのまちで理容師を続けられている。
大好きなまちで理容師を続けられるありがたさ
帰ってきた当時は、神山町の中でも上分が一番栄えていて人口も多かった。人通りも多く、神山町と木屋平方面をつなぐ道沿いに店を構えていたおかげで、いろいろな人が通ってくれた。同時にまちの中と外の面白い話が舞い込んでくる。それを聞くのが仕事の楽しみだった。
長く通ってくれている阿川の男性客も、まちの政治の話ができるいい友人の一人。こうしたお客さんのおかげで、私の世界はどんどん広がっているように思う。今でも毎日が新しい発見の連続だ。
人生で一貫して大切にしているのは「感謝」の心。お客様が必要としてくれるということ、そして、大好きなこのまちでこの齢になっても仕事を続けられているということは、有難いことなのだと思う。これからもどんな時も感謝の気持ちは忘れずに、自分のできる限りのことをひたむきに続けていきたい。
山田理容店
〒771-3422
徳島県名西郡神山町上分川又西4-3
TEL:088-677-0161
OPEN:9時-17時
CLOSED:月曜日、火曜日(第2・第3)
語り手/原 都さん
原理容所 店主
1950年生まれ(取材当時72歳)
理容を通してお客様の人生に触れること
それが私の喜び
中学卒業から理容師を目指して、その道一筋50年
結婚し、夫の家に嫁ぎ、原家の家業を継ぐ形でこのお店に立ち始めた。この店へきて52年になるが、義理の祖母がその27年前から開業していたはずであるから、この店は創業80年くらいにはなると思う。気づけば長く、この場所で理容所を続けてきた。
神山町で生まれ、中学時代までをこのまちで過ごした。中学卒業後は、徳島市内のお店に入り、「理容師見習い」として、今で言うところのインターン修行に入る。傍ら、初めの1年間は、理容の訓練所へ通い、基本的な道具の使い方や衛生管理など、プロとして必要なスキルや知識を学んだ。当時、理容の道を志す学生にとって、お店でインターンをしながら、訓練校で学ぶスタイルはごく当たり前だった。お昼の時間は学校に通い、歳の近い同じ志を持った仲間と切磋琢磨する。放課後は、お店で先輩の背中を見て理容師のイロハを身につけていった。月曜から日曜まで、休みはなかった。でも、大変だと思ったことは一度もない。
訓練校を卒業した後も、さらに1年間は職人修行期間を徳島市のお店で過ごした。一人前の理容師を目指して、国家試験に向け技術を磨く日々。晴れて試験に合格したら「お礼奉公」のため、3年間そのお店で勤務した。その後は、結婚を機に神山へ帰ってきて、夫と義理の祖母の営むお店に立つこととなった。
母の言葉を一心に信じて ここまできたから今がある
理容師を目指すきっかけになったのは、母の教えがあったから。母は、百姓だった。私に「技術を身につけなさい。技術を持っていればどんなことがあってもやっていけるから」と、生きるすべを教えてくれた。彼女の言葉を一心に信じて今日まで腕一本、自分の人生を切り開いてきた。最初の頃は、母親の教えをよく理解できないまま、ただただ信じて進んだ。
振り返ってみれば、母の言葉を信じきってよかったなと心からそう思う。母が伝えてくれたように、私も自分の子や孫に同じ教えを伝え継いでいる。
理容師という仕事は、喜び
他人(ひと)の人生にちょっと携わるということ、それは本当にすごいこと。理容師以外にこんな職業はないのではないかとも思う。人それぞれに歩んできた人生は違うし、考えていることも違う。自分がそれにちょっとお邪魔できること、それが私の喜びだ。その人の生き方を聞くうちになぜか感動する。
母の教えがあったから続けられた理容師。若い時は気づいていなかったが、今では人の生き方を学ぶことを心から楽しんでいる。
原理容所
〒771-3310
徳島県名西郡神山町神領中津138-2
TEL:088-676-1031
OPEN:要問い合わせ
CLOSED:要問い合わせ
語り手/河野 百世さん
PECHE 店主
1979年生まれ(取材当時44歳)
仕事場に遊びに来る感覚で、
お客様と共に楽しく暮らしていく
周りから美容師を勧められていた
神山町鬼籠野で2人兄妹の長女として生まれた。子どもの頃はよく兄と外を走り回って遊んでいた。父が左官職人で、その親方の娘さんが美容師をしていたので、「美容師は良いよ」と勧められていた。それがきっかけで美容師の道を目指すことに。
日付が変わるまで練習をする日々
高校卒業後、市内の美容室に就職。働きながら美容学校の通信に通い、美容師免許を取得した。仕事が終わった後も、日付が変わるまで練習をする日々。周りがやってるためにやらざるを得ない状況であり、帰りたくても帰れなかった。寮に住みながら、系列の店舗を転々と働く日々を11年ほど続けていた。
両親の言葉をきっかけに、神山町へ戻る
妊娠を機に、仕事を一旦休むこととなった。1年後には復帰する予定だったのだが、お店の規模を縮小することになり、戻れない状況になってしまった。「それなら山でお店をやったら?」と両親に言われ、子どもが小さい間は働きに出るよりもその方が融通が利くかもしれないと考えた。なにより地元でお店を開くことが夢だったので、神山町へ戻ってきた。色々な人に相談をしてみると、この物件が空いていると分かり、2010年5月に開業した。
商売は向いていない
忙しくなって休めなくなるのは避けたかったので、初めから一部の人にしか宣伝をしていない。そこから口コミで広がってほしいと思っていたため、未だにあまり情報を発信していない。とは言ってもお客さんが来なければ不安にもなるので、むずかしいところだなぁと日々感じている。顧客は町内のお客さんがほとんどで、慣れ親しんだフレンドリーな方が多い。自分から商品を勧めるのは苦手であり、業者さんに「もっとガツガツしよう」と怒られることもある。どちらかというと商売には向いていないのだろう。
コロナ禍は思いのほか苦労せず、「行くところないけん髪切りにきたよ」と言って常連客が来てくれていたので、とても助かった。
仕事というより、遊びに来ている感覚だ
細かいことが好きで、時間が空いている時はダイヤモンドアートをしたり、折り紙をして過ごしている。仕事をしにここへ来るというより、遊びに来ている感覚だ。お客さんと話すのも楽しいし、1人で遊んでる時間も好き。今後も自分の無理のないペースでお店を続けて、楽しく暮らせたらそれでいい。
PECHE (美容室ペッシュ)
〒771-3311
徳島県名西郡神山町神領字北204-1プチメゾン桜梅桃李
TEL:080-2988-4734
OPEN:9時-18時
CLOSED:日曜日
語り手/森田 美穂さん
L’instant Bonheur 店主
1986年生まれ(取材当時37歳)
髪を切りに来る人も、そうでない人も、
この場所で癒されて帰ってほしい
父が厳しく、髪を伸ばすことが出来なかった
徳島県美馬市出身。子どもの頃は友達の家の裏山で秘密基地を作ったり、田舎の遊びをして過ごしていた。父親が厳しくて、小学生くらいまで髪を伸ばすことを許してくれなかった。その時に〝髪を可愛くしたい〞という思いが芽生え始めた。
親の助言もあり、美容師の道へ
メイクやヘアセットをするのが好きで、美容関係の仕事がしたいと思ったが、スタイリストやヘアメイクの仕事は資格を必要としない。親に「せっかく行くんだったら、国家資格のある美容師免許を取ったら?」と言われたこともあり、徳島県美容学校へ進学を決める。特に美容師になりたいという強い思いがあったわけではなかった。
卒業後は、県内のサロンに就職。5年ほど経ち、スタイリストになったのだが、その頃ブライダルに興味が出てきたこともあり、ブライダル関係の違うサロンに転職した。しかし、転職後すぐ、新しくオープンした美容室のスタッフが足りず、結局美容師として入ることになる。当時は25歳。朝9時から23時まで働いて、休憩を40分もとれない程であった。
物件探しをしている時に神山町へ
美容室で働いている頃に今の夫と出逢う。彼は家具屋をしていて、工房にする物件を探して県内の色んなところを回っている時に神山町に辿り着いた。その時から神山塾はあり、移住者もちらほら居た。岩丸さんに町内を案内してもらったりして、良いところだなぁと気に入った。その後、知り合いから今の物件を紹介してもらい、この規模だったら自分でサロンをしてもいいかなと思い、移住を決める。とても古くて修繕が必要なところがあったが、夫が改修し、2021年に開業した。店名のランスタンボノーはフランス語で「幸せの瞬間」という意味。
コロナ禍での開業
コロナ禍での開業はやはり大変であった。補助金もコロナより前に開業していないともらえない。町内に全く知り合いがおらず、一から集客しなければならない中で、特にお世話になったのが豆ちよの孝子さんだった。彼女に色んな人を紹介してもらい、徐々に交友関係が広がって、お店に足を運んでくれる人も増えていった。孝子さんにはとても感謝している。
カフェを作って、癒しの場にしたい
まだここは未完成。本当はカフェと美容室を一緒にしたい。美容室は髪を切るという目的がなければ来店することはないが、誰かと会話したい、という方もこの場所に来て癒されて帰ってほしい。加えて、このサロンをもっと町内の人が通いやすいサロンにして、町内消費、地域内循環を促したいと思う。今までたくさんの人に助けられてきた。今度は私からお返ししていけるような存在になれるようにと努めている。
Lʼinstant Bonheur(ランスタンボノー)
〒771-3311
徳島県名西郡神山町神領谷479
TEL:088-676-0280
OPEN:9時-17時
CLOSE:日曜日+不定休
語り手/阿部 晃幸さん
Garden of the forest 森の美容室 店主
1987年生まれ(取材当時36歳)
若い世代が「神山町で働くことが楽しい」と
感じられる環境をつくりたい
陸上選手として体育会系の厳しさを体験
神山町神領の酪農家の家庭に生まれ、神領小学校、神山中学校に進学。当時は、神山町内に小学校が6校あり、同級生は70名ほどいた。陸上推薦で美馬商業高等学校(現:つるぎ高等学校)に進学し、全国高校駅伝出場など成果を残す。その後、名古屋にある中央発條株式会社の実業団に入り、朝練し、工場のラインの仕事を行って15時から夜まで陸上練習という過酷な環境を経験する。実業団選手として3年取り組んだものの、世界の壁の高さを実感し、故障を機に引退。趣味の読者モデルの活動をする中で、ファッション・美容業界の華々しい世界に憧れを持ち、23歳で美容室に転職し26歳で美容師免許を取得した。
調子に乗っていた20代
名古屋市郊外のサロンで働く中で、もっと〝自分〞のブランドを高めたい、技術を高めたいと思うようになった。要は、調子に乗っていたのである。そこでより高い技術を追求するために、26歳で名古屋市内で高価格帯サービスを提供するサロンに転職。徹底的に技術とマーケティング力を磨いた。ただし、技術が上がり、店の売上も伸びていて店長を任されたにも関わらず、給料が20万円のままであったため、独立を考えるようになった。そこで独立資金を貯めるために、29歳で郊外のサロンへUターン。そこでは半分フリーのスタイリストの形態をとり、中国進出などを目論んで独立資金を貯めていた。
夢が途絶え、彼女が去り、自由の身に
中国へ進出し、バリバリ稼ごうと思っていた矢先、国の情勢が思わしくなく、中国進出の話が消えた。同時期に結婚を考えて同棲していた彼女と別れる事となり、本当の意味で「行くところも、帰るところもなくなり、自由の身になってしまった」のだ。30歳の正月、神山町に戻ってきて、「あぁ、ここやな」と思い、1年間準備のうえ、神山町の山奥、祖父の家を改修してGarden of the forestを独立開業した。
このまちの環境は〝有難い〞と気づいた
神山町には多くの魅力がある。環境が良く水が良いおかげで、人が心地よく生きられる。学生時代に陸上をしていた時は、多くの人に支援いただき、気にかけてもらった。この過疎のまちで仕事をすることは容易ではないが、それができるということを自分がロールモデルとして地域の若者に伝えていきたいと考えるようになった。
現在、開業して4年目。美容業界にとらわれずに、まちの人たちと0→1を生み出すのが楽しいと感じる。町内の仲間で古着屋を開店し、イベントも生み出していっている。神山町で暮らす10代の皆に伝えたい。20代は技術を磨きに外に出てもいいと思う。30代になって力をつけて、新しい〝何か〞を生み出すことを、共にこのまちで実現していこう。
Garden of the forest 森の美容室
〒771-3311
徳島県名西郡神山町神領字北241-10
TEL:090-5718-0480
OPEN:9時-18時
CLOSED:月曜日
編集後記~私たちが作ったんじょ!~
ライティング 安達 優香
神山の端から端まで、たくさんの方にお話を聞かせていただくことができました。ここに掲載することが叶わなかったお話もありご紹介できないのがとても残念です。私自身、店主のみなさんとのお話を通して自分はどう生きていたいのか、改めて考える時間をいただきました。この一冊から、より多くの方にこの町の人たちの魅力がイキイキと伝わっていったらいいなと思います。
ライティング 嘉手納 笑美
神山に来て1 年ちょっと。間違いなく私はこの町に来てから、人と関わることが好きになりました。今回の企画に携われたことで、様々な背景を持った方のお話が聞けて、新たな発見やつながりができたことがなにより嬉しいです。この町、この町に住む人々の魅力を、今後も何かしらの形で伝えていきたいです。
ライティング 林 弥生
神山町在住初心者の私が、この冊子製作の仲間入りをさせていただけたことも、神山町の魅力なのだと感じています。様々なバックグラウンドをもった方々と協働して冊子を製作したことや、取材先でお話しいただいた先輩方との出会いで、私の神山町愛は加速しています。この冊子を通じてどんな出会いが生まれるのか、どんな会話が生まれるのかワクワクしています。
写真撮影・クリエイティブ 横手 雅史
「髪は切ってもまた伸びてくるけんな!」取材中の何気ない言葉が心に響きました。大変な事があっても日々を愛し、楽しく生きる姿は今の神山にもしっかり繋がっている気がします。撮影に行く度に元気をいただきました。きっと今日も店主たちのハサミが踊り、お話が弾んでいることでしょう。この冊子が神山や手に取った方の笑顔のきっかけになれば嬉しいです。
写真撮影 滝口 瑠奈
たくさんの美容師さんと出会い、更に神山町の魅力を知ることが出来ました。被写体のいきいきしている一瞬を収めるのはとても難しかったけれど、それと同時に目をキラキラさせている皆さんを見るのがとても楽しかったです。髪の毛を切り続ける理由は、「単純に髪の毛を切るのが好きだからではなく、人と接するのが好きだから」とお話してくれたことに、胸を打たれました。
誌面デザイン・クリエイティブ 西海 千尋
神山塾9期生としてこのまちに来たのが、2017年のこと。以来、日々出逢う人に心惹かれながら6年間を過ごしてきました。町内に点在する美容室・理髪店の店主さん達の姿を通して、まちの歴史が浮き立ってきます。お店の前を通る時に、顔を浮かべたり挨拶をしたりといった小さな関わりや、「読んだよ!」「切ってよ!」と扉を開くような出逢いが、あちこちで芽吹くといいな。
神山町の他の自分史を読む
このページは、神山町で自分史ウェブサイト制作事業を手掛けるAYAクリエイティブの制作チームにより制作されました。
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