中西 謙一郎(なかにし けんいちろう)

株式会社ムツビエージェント 専務取締役

略歴

1980年9月30日徳島県板野郡に生まれる(取材当時42歳)
7歳~12歳小学校に通う。習い事は少林寺拳法、水泳、英語
13歳〜15歳中学校に通う。帰宅部。勉強は得意だった。
16歳〜18歳市内の進学校に入学。勉強についていけなくなった。空手部で団体戦県大会、個人戦市大会優勝。最後の総体は負けた。
19歳〜25歳1年浪人して日本大学法学部へ入学。初めてのアルバイトを経験。東京生活になじめた部分と、そうでもない部分があった。
26歳司法試験を目指し勉学に励む。
28歳中央大学のロースクールに入学。
31歳ロースクール修了後、1度受験をするも不合格だったため別の道へ。徳島にUターンし現在のムツビエージェントを妹と起業。
36歳〜40歳徳島県内の同業ではトップの企業へと成長。家族もできて人並みの生活ができるようになった。
41歳〜安定した生活ではあるが、新しいチャレンジをしたい。

僕は幼い頃から自分を取り巻く環境の理不尽さや、突き抜けられない心の弱さにジレンマを感じていた。挑戦と諦め。戦いと守り。相反する感情に苛まれ心がザワザワとして落ち着かない。常に怒りのぶつけ先を求めていた。

幼少期から取り組んできた少林寺拳法や空手、ボクシングは闘争心を掻き立ててくれた。戦った相手の気持ちを考え、勝ちきれない自分もいた。大学進学以降、意地になって続けてきた司法試験は学ぶ楽しさを教えてくれた。それでも突き詰めて勉強できない甘さが浮き彫りになった。僕は他人と比べ、できない自分に怒っていたのだ。

「納得できなければ進めないのに、何をやっているんだ?」

10年を費やした司法試験は叶うことなく終わりを迎えた。それでもタイミング良く訪れた起業の機会に恵まれ、現在も妹と一緒に事業に取り組んでいる。

妻との出会いも大きな転機となった。学校の先生である彼女と出会い、初めて心の静寂を経験した。僕は生まれて初めて自分と向き合い、心の声に耳を傾けた。その後、心理学を学び新たな自分を発見し理解を深めている。

ここに到着するまで大きく回り道をしてきたように思う。順風満帆な人生を送ってきたとは言えないが、紆余曲折を経て自分自身に納得できたのは面白いのかもしれない。まだまだ道半ばではあるが、今までの歩みを振り返り自分史として語ろうと思う。

生い立ち・家族のこと

1980年9月30日、徳島県板野郡北島町にて父と母の間に4人兄弟の3番目、次男として生まれる。

弁護士として忙しく家にいることが少なかった父と、年子の兄妹4人を抱えた母の元で育った。好奇心が強く活発で、面白そうなものに進んで挑戦する積極性を持っていた。

人と違うことをするのも好きだった。道なき崖を駆け上り、海ではテトラポッドの先まで泳ぎアワビをとる。破天荒だけど自立した考えを持っていたし、自分で責任を取れれば型にはまる必要なんてないと思っていた。

年が近い兄妹の間で育ったためか、他より抜きん出たい気持ちもあったようだ。「年上の兄姉に負けるなんて当たり前。でも勝ちたい。勝てたらラッキー」と、兄姉に追いつきたい一心で上ばかりを見ていた。

母と卒園式
4兄弟と(上段右が中西謙一郎)

6歳頃から始めた少林寺拳法では、相手を恐れず正義を貫く強さを見せた。弱い者いじめをする人間には立ち向かい年上にだって物怖じしない。自分なりの正義を持っていた。

幼い頃の僕にとって挑戦とは楽しく刺激的なものだった。兄姉の参考書を引っ張り出しては熱心に勉強していたし、習い事だって欠かさない。努力を惜しまず少林寺拳法や水泳、英語に挑んだ。

しかし、いつからか努力をプレッシャーに感じていたようだ。楽しさは消え、ライバルに負ける不安と戦う日々を過ごすようになった。自分にとっての挑戦は、もはや純粋な好奇心ではなく勝って当たり前の“義務”へと変わっていた。

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幼い頃から抱えたジレンマ

理想の姿になれない不甲斐なさも僕を苦しめた。ADHD気質のためか座って先生の話を聞くのが苦痛なのだ。当時は特性を持つ子どもへの理解が乏しく、学校の先生に叱られ立たされることもあった。それゆえ僕はいつも理想と現実の狭間で葛藤していた。

自由は楽だ。でもそれを押し通せるほど天才ではない。
勉強は楽しい。でもここぞというところで伸び悩む。
何でも器用にできてしまう。でも突き抜けた才能はない。

ふたつの異なる感情が衝突し、常にジレンマとしてつきまとってきた。

僕は今でも、ある眼鏡職人に言われた言葉を思い出す。

「器用は不器用に負ける」

この言葉が心に深く刺さって離れない。幼い頃から、煮え切らない思いを断ち切るために、人に勝ち自己を認めてきた。だが、いつも何かが足りないのだ。その答えを職人の言葉に見つけた。いっそのことできなければいいのだ。それなら諦められるのに……

何もかも中途半端なのだ。半端な自分が許せなかったし、コンプレックスに囚われている自分も嫌だった。でも同時に勇気をもらえたのも確かである。

「努力は伸びる可能性をはらんでいる」

たとえ突き抜けられなくても、努力を続ける自分を好きになった。できなかったことを克服し成長している僕ってすごいよ。そう素直に感じられるようになったのだ。

小学生の友達と
母の実家の庭

学生時代のこと

高校時代

地元で一番栄えた所にある高校へ進学したことで、僕は勉強への興味を失っていた。刺激的で楽しい毎日で勉強に身が入らなくなったからだ。それでも高校から始めた空手には熱中していた。強い先輩と一緒に行う練習は楽しく、やりがいがあった。

ところが顧問の産休で空手部は指導者を失い、練習が減ってしまった。そうなると目的意識も自律心もなかった僕は自力で活動を続けることができない。またもや目の前の楽しさに流されダラダラとした生活を送っていた。

それでも父からのプレッシャーは常に頭にあったと思う。「父のような弁護士にならなくていいのか?」理想と現実とのギャップはますます大きくなり、次第に自分を空虚な存在と感じるようになった。

空手の大会に出場した高校時代

大学時代

高校時代からの自堕落な生活を立て直す必要性を感じたが、方法がわからない。結局、父と一悶着の末に大学に進学すると決めた。学力はかなり落ちていたが2、3カ月の勉強で関西の有名私立合格レベルまで戻した。

だが父は認めてくれなかった。適当な勉強でそこそこの大学に進学しようとする中途半端さが許せなかったのだろう。やむを得ずトップ大学への入試に挑むが、やはり不合格で終わった。

そして僕は一年後の再受験を目指す浪人生になったのだが、目標や夢が曖昧なままで勉強に身が入るはずもない。成績もイマイチ伸ばせないまま挑戦した翌年の入試はまたもや失敗で終わった。もう浪人を繰り返すのは嫌だった。そこで、とりあえず滑り止めとして受けていた日本大学への入学を決め上京した。

ところが東京の都会的な生活は全く楽しくない。満員電車は疲れるし、どこに行くにも人が多く遠慮しなくてはならない。見えないルールがあるのも面倒だ。大学でも周りとはなじめていなかった。流行りのハイブランドで着飾った学生を見ては「アホくさ」と非難の目を向ける。中身のないものを懸命に追いかける彼らとは、一緒に歩む気持ちになれなかったのだ。

そこで昔から憧れていたボクシングを始めた。海外のチャンピオンも利用する有名なジムでの練習はとても楽しく、時には日本チャンピオンの練習を目にすることもあった。縄跳び一つでも自分とは違う。いつかは自分もチャンピオンになれるかも……と漠然と考えていたが、思い上がりだと分かった。自分より強い人はこの世にたくさんいる。頭でなく体で思い知らされた出来事だった。

その後、よく行く定食屋で出会ったおじさんに誘われ空手も再開した。空手の腕は未だ健在で、地区大会の団体戦で優勝し全国大会では準優勝まで上り詰めた。さらに世界大会出場のチャンスまでいただいた。世界大会に出られるなんて、またとない光栄だ。

だが、世界大会に出るには本部での強化合宿や研修への参加が必須と知り迷った。とにかく空手の基本稽古が嫌いだった僕は、基本からみっちり行う強化合宿への参加は無理だと判断し辞退した。本気になって追及できない未熟さは時に大きなチャンスを逃す。強さの陰に隠れる内面的な弱さを感じた学生時代だった。

大学院の友人と(右が中西)
小松海岸にてさわらを釣った中西

司法試験に挑んだ10年間

「父のような弁護士になりたい」
その願いを叶えるために、司法試験の勉強は大学在学中ずっと続けていた。司法試験突破は簡単ではない。目の前には大きな壁が立ちはだかり多くの受験者を跳ね除ける。それでも勉強を続ければ何とかなるだろうと、果敢に挑んだがダメだった。

在学中の合格を逃した僕は、卒業の翌年に徳島に戻ることになる。そこでの2年間は父の運転手をしながら司法試験の勉強に打ち込んだ。その後、満を持して司法試験を受けるも、またもや惨敗。司法試験の壁は分厚く微動だにしない。あれだけやっても落ちるんだから、もうどうしたらいいのかわからない。完全に行き詰まった僕は父に相談を持ちかけた。すると思いつめた様子を見た父は「1週間、とにかくぼーっとしてから決めたらどうか」と助言してくれた。

大学院の卒業旅行
箱根を1日かけて1人20㎞走った

父のアドバイスを受け勉強から一旦離れてみた。そしてリフレッシュした自分に問うてみた。「これからお前はどうしたい?」そこで出てきた答えは「やりきるまで頑張りたい。もう一度挑戦しよう」だった。司法試験への再チャレンジが決まった。ただ、司法試験を受ける仲間もいない徳島で勉強を続けるのは難しいと感じていた。そこで参考書がとても良かった司法試験対策の専門学校・伊藤塾への入学を決め京都へ向かうことになる。

京都の伊藤塾では充実した学びがあった。初めて法律が腑に落ちたし学力も一番伸びた。それでも26歳で受けた司法試験では、合格まであと一歩のところでダメだった。落胆した僕は再受験へのモチベーションを維持できなかった。その頃、司法試験の制度が変わりロースクールで勉強する人が増えたのも原因だろう。「それなら進路を変更しロースクールを受けてみようか。それがダメなら諦める。とにかく受けるだけ受けてみよう」そんな気持ちで受けた試験の結果、中央大学ロースクールへの合格を手にした。

30歳、人生の節目に直面した夢と現実

中央大学の学生は優秀で意欲があり、どこかマニアックで面白かった。ここでも変わらず勉強は得意ではなかったが、そこそこ頑張って学校も楽しくなっていた。ただ、在学中に30歳という節目を迎え、自分が置かれた状況に大きな不安も抱えていた。就職、結婚、出産。友人の知らせを聞くたびに取り残される不安が襲ってきた。それを吹き飛ばせるくらい勉強に打ち込めれば良かったが、そこまでの強い意思は持っていなかった。

試験勉強は出口の見えないトンネルを進み続けるようなものだ。進んだからといって合格は保証されていない。長く試され続けることへの不安は身体に深く刻まれたようだ。受験から10年以上経った今でも試験に落ちる夢を見ることがある。

中央大学ロースクール

ここまでくると、司法試験への挑戦はもはや意地だった。納得できるところまでやらないと気が済まないし、勉強に費やした努力を無駄にしたくなかった。それに、ここへ来てやっと模試で合格点を超えるようになっていた。合格は目前だ。それでも年齢を考えて受験はあと1回だけにしようと決めた。

そして、最後の司法試験がやってきた。合格点を超えた自己採点を見て「ようやく次の論文テストへ進めるかもしれない」と少々浮足立っていた。だが現実はことごとく残酷だった。なんと1点差で不合格だったのだ。自己採点を間違えていたらしい。信じられないミスに気づき呆然としたが、なんだかこれも自分らしいと妙な納得感も感じていた。来年こそは合格できるかもしれない。そんな考えも一瞬頭をよぎったがモチベーションは完全に切れている。「もうアカン……辞めよう」やる気がないのに勉強を続けるのは無理だった。10年かけて挑んできた司法試験への挑戦は、納得と諦めとともに終わりを告げた。

起業し、走り出した第二のスタートライン

全てを終えた僕は、久しぶりに自由を感じていた。ところが、ここから急展開が訪れた。なんとお正月に帰った徳島の実家で妹と一緒に起業をする話が持ち上がったのだ。

時を同じくして仕事を辞めた妹は、事業構想を抱いていた。奇跡的にタイミングがマッチして話はとんとん拍子に進み、半年後にはムツビエージェントが誕生した。起業前は食べていけるか不安もあったが杞憂に終わって良かった。運よく時流に乗ったムツビエージェントの売上は年を重ねるごとに2倍、3倍と増えていった。

働くことは楽しかった。人の役に立てること、達成すること、成長すること……すべてに意味があると感じられた。仕事が嫌という人が世の中には多いが、なぜなのか良く分からない。それくらい事業は面白くやりがいを感じている。今では仕事をしている自分が何よりも自分らしいと大きな実感を持てるようになった。

左:妹(社長)、右:謙一郎

東日本大震災でのボランティア活動

最後の司法試験を終えた後に向かった東北での活動は、僕の人生に大きなインパクトを与えてくれた。

未曽有の地震が日本を襲った2011年3月11日。あまりの被害の大きさに言葉を失ったが、何か役に立てることはないかとボランティアとして現地入りした。友人2人と一緒に訪れたのは岩手県の大槌町だ。人口2万人の小さな海沿いの町で2000人を超える人々が津波の被害を受け、街は壊滅的なダメージを受けていた。鮭が毎年遡上する大槌川も例外ではない。海からの逆流によって流された瓦礫やヘドロが河川敷一帯を覆い異臭を放っていた。

そんな中、現地の人々とボランティアが協力して瓦礫の撤去作業を行っていると、菜の花を植える計画が持ち上がった。大槌町をきれいな姿に戻せるよう願いを込めた黄色の菜の花だ。僕たちは掃除をした河川敷の土地を耕し、種をまいていく。そんな姿を見た現地の人々は僕たちに「今日のことを忘れないで続けて欲しい」と声をかけてくれた。彼らは表面上では現実を受け入れたようにふるまっていた。

東北の人々は計り知れない強さを持っている。ボランティアにも優しく接してくれた。それでも妻子を亡くした老人は、お酒を飲んでは寂しさを口にして、大きな背中を揺らしてむせび泣く。そんな悲しみに溢れた東北には、2011年の年が暮れるまで月1回程のボランティアとして関わっていた。他の参加者と連絡を取り合い雪が降る東北に足を運ぶ。

時には現地担当者の自宅に泊まることもあった。当時の悲惨な状況が僕に与えたインパクトは大きかった。悲しい記憶は生々しい感覚と共に脳裏に焼き付き、気持ちの整理を拒んでしまう。つらい記憶と向き合うにはどうしたらいいのか。未だにわからないのだ。

ただその一方で、ボランティア活動によって自身が救われていることにも気が付いた。10年かけて挑んだ司法試験に破れ、深い喪失を抱えていた自分にとってボランティアは大きな救いになった。「悲しみに暮れながら、強く優しい姿を見せてくださった現地の人々の役に立ちたい」彼らへの寄り添いを通して、僕は自分自身の悲しみにも向き合っていた。

岩手県大槌町で活動する中西謙一郎
ボランティア受け入れの金山さん宅に宿泊しながら活動

人生のパートナーとの出会い「心の静寂を初めて感じた」

妻との出会いがなかったら、僕は全く違う道を歩いていたかもしれない

ムツビエージェントが軌道に乗ってきたころ、僕たちは結婚した。友人の紹介で出会った5歳年下の彼女は、猫と旅行が好きな真面目なタイプ。職業は学校の先生だ。幼い頃からやんちゃをしては先生から叱られていた僕が先生と縁を持つのだから人生はわからない。

直感的に好印象を持った僕たちはすぐに交際をスタートし、半年後にはプロポーズをしていた。彼女と僕の性格は真逆だと言っていいだろう。ずっと「勝つか負けるか」の闘争心を抱きながら生きてきた自分にとって、穏やかな空気をまとった彼女は新鮮だった。真面目で穏やかで、僕のように攻撃的なところが全くない。

ちょっとした喧嘩になることはあっても、不平不満を言わず自分の中で気持ちを処理できる強さがある。そんな彼女と接するうちに、僕は人生で初めて心の平穏を感じた。穏やかで静かな時間とはこんなに良いものなのか。初めての経験に心が震えた。

格闘技をやってきた自分にとって刺激は絶対的なものだった。それが親のストレスから逃げる必要がなくなり、世界と静かに向き合えるようになった。

「人の心ってこんなに静かなのか」

心理学を専門的に学ぶようになり、プライベートだけではなく仕事への変化も感じていた。今までは売上の数字を追いかけるばかりだったが、人や仕事内容に興味を持って対峙ができた。正解がない心理学はたくさんの新しい気づきを与えてくれるし、答えのない問いを考えるのは楽しくてたまらない。

心理学は自分への理解も深めてくれる。負けず嫌いで完璧主義だった幼少期。なぜ僕はあんなに戦っていたのだろう。それはきっと寂しかったからだ。親の愛情の奪い合い。もっと親から注目されたかったのだと思う。

浜田省吾の歌が好きになった学生時代。なぜ僕はあんなに戦っていたのだろう。それはきっと怒っていたからだ。理想と現実のギャップから生まれた鬱憤を格闘技にぶつけ発散させようとした。

ところがここでも器用貧乏が顔を出す。対戦相手の気持ちを考え勝ちきれない不甲斐なさに嫌気がさした。それがここまで変わるなんて。想像もしていなかった。妻には心からの感謝を伝えたい。生まれてからずっと迷い、気づいていなかった自分の心に初めて向き合えたからだ。人との出会いには、人生を変える大きな力がある。

子どもとのエピソード

子どもが生まれる前は、子どもをかわいいと思えるか自信がなかった。生まれたての赤ちゃんは小さくて、髪もべちゃっとして何となく気持ち悪いとすら思っていたからだ。自分の子どもはさすがに気持ち悪いとは思わなかったが、かわいいというより無事出産できてほっとした。

妻の産後も問題なくそれが一番だった。1〜2歳、言葉の理解が進み一緒に遊べるようになるとかわいくなってきた。

妻が休みを取りづらい仕事なので、子どもが風邪をひいたら私が在宅勤務しながら面倒を見る。保育園に預けた1年目は腹下しや風邪でしょっちゅう自宅で看護するように言われ、通算50日以上在宅勤務をした気がする。仕事をしている間、いい子にしていることもあれば、姉妹で遊んだり、喧嘩したり、うんこを漏らしたり。

七五三のために髪を生まれてから一度も切らずに伸ばしており、妻はその飾りつけを大変楽しみにしていた。しかし、在宅勤務で僕が目を離している隙に姉妹で髪を切り合い、ロングヘアーがざんばらのベリーショートになった。男親なので「髪はどうでもええわ、耳切らずに良かった」と思ったが、帰ってきて見た妻は絶句。その日は一日口をきいてくれなかった。

翌日は休日だったが口をきいてくれず、着物と合わせるはずだったかんざしを子どもにつけては「あかん……」別のものをつけて「これもあかん……」とうなだれる。

しかし私も会社に無理を言って在宅し、役員としてのパフォーマンスを落とさずに働きながら子ども2人の面倒を何とか見ていて、やむを得ないこともあると理解してもらいたい。そのことを妻に言ったら「怒っとんちがう。悲しいだけ」と言われた。そう言われると返す言葉もない。その後、美容院に行ってアシンメトリーな個性派ショートヘアーにしてもらい、七五三は無事に行われた。

長女:小春
次女:桃花

これからの自分が生きる道「夢・目標」

今は仕事やプライベートが安定している。これは起業してから下手でも一生懸命やってきた成果ではないか。熱心に仕事を続けてきたからこそ、仕事のスキルは向上し人脈も広がった。数々の幸運も僕を後押ししてくれた。それでも安定した生活に甘んじることなく新しいことにチャレンジしたいと考えている。

幼い頃からずっと成り行きで生きてきたが、今度こそ“自分の決断”でスタートしたいのだ。プロセスこそが楽しいとわかったし、好奇心の強い自分の性格もよく理解できた。目標は作らなくていいだろう。自分なりに下した決断で、正しいと思ったことのために精一杯生きていきたい。そうして辿り着いたところが自分の人生だと思う。悔いのない日々を過ごしたい。

「我が道は己の意思の前にある」

自己を理解し、他者と協力して進んでいきたい。願わくば、これからも良い出会いに恵まれますように。出会いは神様が決めることなので祈っておこう。


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